クライテリア

批評誌『クライテリア』によるブログです。

杉田俊介さんと『ジョジョ』座談会 part1

2017年7月,『ジョジョ論』(作品社)を刊行したばかりの杉田俊介さんと共に,クライテリア編集部の面々は『ジョジョの奇妙な冒険』(以下『ジョジョ』)についての座談会を行いました。そのときの模様を3回に分けて,お伝えします。収録から記事の公開まで半年もかかってしまったのは,ひとえにクライテリア編集部が原因です。申し訳ありません。なお,以下の記事内ではネタバレには一切配慮しておりません。

ジョジョ論

ジョジョ論

 
■参加者

杉田俊介:75年生。『ジョジョ論』著者。好きなキャラはサンダー・マックイイーン。好きなスタンドはメイド・イン・ヘヴン
(以下,クライテリア編集委員
野口直希:91年生。好きなキャラはアバッキオ。好きなスタンドはスカイ・ハイ。(@N929pop
野村崇明:94年生。好きなキャラは山岸由花子。好きなスタンドはウェザー・リポート。8部だけ未読。(@mihailnomrish
升本雄大:84年生。好きなキャラはブチャラティ。好きなスタンドはスーパーフライ。8部の豆銑礼はスーパーフライのパラレルと思いこんで読んでた。(@masumoto_
横山宏:91年生。ここ数年『ジャンプ』を購読しているが,『ジョジョ』はほとんど読んだことがない。(@gexive_boyz

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(撮影:横山宏介)

■何部が好きなのか! 語らずにはいられないッ!

横山:今日は杉田俊介さんの『ジョジョ論』を参照しながら,『ジョジョの奇妙な冒険』(以下『ジョジョ』)について多角的にお話できればと思います。よろしくお願いします。

杉田:はい。今日は楽しく雑談しましょう。ちなみに皆さんは何部が好きですか?

升本:僕は5部ですね。次が7部。

野口:僕も5部です。

野村:5部ファン多いな。僕は4部の杜王町編が好きですね。

野口杜王町が舞台となっているのは8部『ジョジョリオン』もだよね。

升本:8部は2011年から現在まで連載中だけど,一向に明確なラスボスというか最終目的っぽいものが提示されないし,いつ「これで終わりです」となるか全然わからないから,コメントしづらい……(笑)。

横山:杉田さんは何部が好きですか?

杉田:好きなのは4部ですね。凄いと思うのは7部のSBR(スティール・ボール・ラン)。

横山:ぼくは『ジョジョ』をほぼ読んでいないので,今日は知らない人としてあえて質問役に徹しようと思います(笑)。早速ですが,『ジョジョ』は部によってそんなにテイストが違うものなんですか?

杉田:結構違いますね。

升本:それぞれの部を続けて読むと連続性は感じるけど,読み終わってから思い返すと「部単位で区切ると,だいぶ違う話だったな」となりますね。

杉田:たとえば4部は日本の地方都市(荒木飛呂彦の出身地である宮城県仙台市がモデルのS市杜王町)が舞台で,日常の中で事件に巻き込まれていく感じ。3部はロードムービー+RPG的な展開で,宿敵のディオがいるエジプトへ向かって世界中を冒険していく。

横山:なるほど。升本さんと野口さんが好きな5部はどんな話なんですか?

野口:5部はイタリアが舞台で,主人公がダークサイド的なんです。3部のラスボスだったDIOの息子のジョルノ・ジョバァーナが主人公で,ギャング組織に入るところから始まって。

升本:最初は組織の中で出世することで街の浄化を目指すんだけど,途中から組織の実情に気付いて目的が変わっていく。

杉田:5部はすごく暗鬱としていますよね。

升本:僕が5部を好きな理由は,他の部に比べてチーム戦が多いところ。

野口:主人公たちは基本的に5~6人のチームで動くんだよね。

升本:主人公たちがチームで動くのもそうだし,敵もチームだったり二人一組だったりで襲ってくるから,必然的に多対多もしくは多対一のバトルになって,二人の能力の特徴を組み合わせると……,みたいな話になる。

杉田:5部は,敵側の暗殺者チームも人気が高いですよね。『HUNTER×HUNTER』の幻影旅団や,『るろうに剣心』の十本刀みたいに。

野村:5部ってチーム戦も印象深いですけど,ラストの展開もすごいですよね。ラスボスのディアボロとの対決の中で,ジョルノのスタンドのゴールド・エクスペリエンスが進化してレクイエム化したあたりから,もはや何が何だか分からなくなるじゃないですか。なんでディアボロはレクイエムに到達できないんだ,なんでディアボロの拳は届かないんだ,って。

杉田:あれは時間を巻き戻すのですらなく,因果律に介入して原因→結果の過程自体を無効化するという,ほとんど西尾維新の小説のような能力でしたね。しかも荒木さんは,それをたんなる言葉ではなく漫画のグラフィックとして,二次元平面の上に描かねばならない。マンガ論的にもかなり滅茶苦茶なことに挑戦している(たとえば西尾維新原作の『めだかボックス』の球磨川禊の能力も因果律に介入するんだけど,それはグラフィックの冒険としては描かれていません)。あたかもマンガ読者の僕らに神的な試練を与え,マンガを読む「視力」それ自体の更新を迫る,そういうところがあります。単純に超読みにくいし!

野口:あそこの描写は単純に何をやっているのかよく分からないんですよね(笑)。そして6部はさらにわかりにくい話になっていって……。

杉田:ほとんどマンガのポリフォニーだよね。6部はスタンドの能力が形而上学的なものが多い。マンガ表現としても,もっとも実験的な章かもしれない。時間の加速や,宇宙の誕生自体を漫画で描こうとしている。

野村:主人公が女性という点が『ジャンプ』マンガとしてまず珍しくて,しかもその主人公が監獄に捕まっていて,檻の中でマスターベーションの話をするところから始まる。何もかも規格外で……。

杉田:でもそのぶん,6部って物語としてはかなり微妙。本音をいえば相当面白くないよね。ディープなファン向けかも。

野口:ラストのインパクトでなんか読み終わった感じはするけど,特に脱獄するまではけっこう読むのが辛い。最後のオチと,ラスボスのプッチ神父についてはよく語られるんだけど。

杉田:6部から読むのはきついよね……。論理が破綻しまくっている。重力が裏返るってなんだとか(笑)。

横山:部によってほとんど別作品なんですね。そんなに部ごとのテイストが違う『ジョジョ』という作品のなかで,それでも一貫しているものって何なんでしょう?

升本:荒木先生自身が挙げているのは「人間賛歌」。

野口:杉田さんの本では,『ジョジョ』は運命からの自立というテーマで描かれているという説明が一番分かりやすかった。

杉田:僕の『ジョジョ論』の場合,4部論までと5部論以降で切断があります。資本主義的な競争社会の中で,個人の欲望を自立的に現実化していくと,正常と狂気,強いと弱い,善悪や美醜などの価値基準が無効化されていく。資本主義や能力主義の中から内在的に,それに抗する,オルタナティヴな価値観が出てくる。それが『ジョジョ』的な意味での「自立=スタンド」なのではないか……というのが1部~4部を論じた辺りです。狂気や障害,病気の側から自己啓発的な思想を更新してみる,という意図もありました。
そして5部以降を論じた後半では,運命(論)との戦いがメインになっていく。運命に抵抗することも運命の一部なら,人間の自由とは何か,運命に対して自立するとは何か。荒木さんが通っていた仙台市東北学院榴ケ岡高等学校は、プロテスタント系の学校で,『ジョジョ』には最初期からキリスト教的な自己犠牲や運命論のテーマがあるんだけど,特に5部以降は運命論の呪縛というか,重力が強くなっていく。その辺りを論じてみました。佐々木敦さんが『未知との遭遇』で書いているけど,情報化やウェブ社会化の中では宿面論の感覚が身近になっていくから,その辺の現代性はちょっとあるかもしれません。 

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野口:6部でそれが最高潮に達して裏返って,7部でもう一回そこに向き合って自立するという構図で描かれていますよね。

横山:『ジョジョ』という作品は1部から連載中の8部まで分かれていて,それぞれバラバラなテーマを持っている。そしてそれが30年という長い時間をかけて描かれているということが最大の特徴だと思いました。

■『ジョジョ』と他のジャンプ作品の違い

横山:杉田さんは他のジャンプ作品と比べて,『ジョジョ』の特徴をどう思われますか?

杉田:たとえば『ONE PIECE』は、哲学思想でいえばすごくヘーゲル的なマンガだと思う。細かい修正や登場人物の追加はあるけれど,連載初期から,物語の結末までの全体がすでに決定されていた,と聞いています。完全な体系性が先にあって,ラストの結末(つまり絶対精神)に向けて物語が数十年かけて弁証法的に進んでいく,というヘーゲル的な設計。それに対して『NARUTO』は,緩やかな世界設定は一応ありつつも,ミッション単位で物語が折り重なっていきますね。ミッション中心主義。一つずつのミッションが積み重なって,それが物語世界を動かしていく。体系ありきじゃないから,結構,『NARUTO』には破綻や無理も多いですよね。力技で強引に整合性を与えていく感じ。

横山:拠点があって,ミッションが与えられていく感じですね。

杉田:それに対して『HUNTER×HUNTER』の冨樫さんの描き方は,あるゲーム的な環境と状況を作って,そこに複数の人間をユニットやコマのように配置してみる。人物たちがどう動くかわからない。ダイアグラム的な感じがする。冨樫さんは根本的にゲーム的想像力の人で,章ごとに,それぞれ異なるゲームソフトやアプリのよう。章ごとに全く違うマンガみたいになる。いわばアーキテクチャ主義というか。

升本:ハンター試験も,天空闘技場も,グリードアイランドも,キメラアント編も、箱庭的ですよね。

杉田:一方で,荒木さんは,毎回のバトルごとの熱量に全力を注いでいる。たぶん,あまり細かく全体像や世界観も設定していないよね。最低限の設定だけ決めたら,あとは人間や物語がどう動くかは,毎回ごとのノリで勝負しているところがある。

升本:インタビューなどで,荒木さん自身がおっしゃっていますよね。最初はこうするつもりじゃなかったとか,どうなるかわからなかったとか。だから矛盾が生じちゃう(笑)。「おとなはウソつきではないのです。まちがいをするだけなのです……。」という,単行本4巻のあとがきは有名です。

杉田:昔の『キン肉マン』っぽい(笑)。「あれっ,荒木さん設定忘れてね?」というのが結構ある。たとえば4部では,吉良吉影が最後の敵かどうかも,はっきりしていなかったのでは。

野口:『ジョジョ論』にも書かれていましたけど,たしかにそうですよね。

杉田:吉良とは無関係に,全く別の「ラスボス」がいてもおかしくなかったよね。ちなみに4部では少なくとも4度,ラスボスっぽいのが出てくる。

升本:4部が開始してすぐ,ジョセフのスタンドで映ったアンジェロが「日本犯罪史上最低のムナくそ悪くなる犯罪者」と書かれていたから,すごく強い敵なのかなと思っていたら……。

杉田:そうそう。アンジェロ,京兆,レッド・ホット・チリ・ペッパーと出てきて,弓矢も回収しちゃったし,もう戦うべき敵が誰もいないじゃん,って空白地帯が訪れた後に,唐突に吉良吉影が出てくる。考えてみると,それまでの話との連続性が全然ないんですよ。さらに,吉良が本当にラスボスなのか,背後に何者かがいるのか,それもわからない。吉良が死んだ時も「えっ,これで終わり? 他にも敵がいないの?」って感じがちょっとあった。これって珍しい現象なんじゃないか。つまり4部では「ラスボス」というマンガ的概念自体が脱構築されている。4部は物語展開と言い,地方の郊外都市という設定と言い,ものすごくポストモダン的だよね。

横山:『ジョジョ論』の書き出しには「ジョジョといえばスタンドである」と書かれています。なのでスタンドについても伺いたいのですが,スタンドはいわゆる王道作品の『ONE PIECE』の「悪魔の実」や,『HUNTER×HUNTER』の「念能力」とどう違っているんでしょう。

杉田:能力設定の中には,作者の「思想」がはっきり現れますよね。たとえば『ドラゴンボール』はすごくリバタリアン的で,ひたすら個人の能力が数値(資本)として蓄積されていく。それにプラス,血統主義もありますが(という意味ではネオコン的かも)。地球人だとせいぜいクリリン止まりだからね。それに対し『HUNTER×HUNTER』であれば,『ウィザードリイ』などのRPGのように,6系統に能力が区分けされていて,才能をそれらに割り振りできる。

升本:ゲームのキャラクター育成の,スキルポイントの割り振り的ですよね。

杉田:そうそう。古典的なRPGっぽい。テーブルトークの『D&D』とか。それに加えて,個人的な制約=誓約という特殊設定があって,大きなリスクと引き換えに極端に能力を高められる。

横山:『ウィザードリィ』の全裸忍者みたいな(笑)。

杉田:冨樫さんの想像力の根本には,「ゲームを利用して世界を変えられる」「人間はゲームによってだけ,かろうじて分かりあえる」というゲーミフィケーション的な思想があるよね。

それに対して,『ジョジョ』の設定はアナーキズムに近い。アナーキズムには個人的アナーキズムと集団的アナーキズムがある。ちなみに,『ONE PIECE』は,政治思想的にいえば、後者の集団的アナーキズムの典型でしょう。海賊仲間という互酬的なアソシエーションが一番大事なわけです。現実社会でいえばNPOとか社会的企業でしょうか。市場原理(能力競争)を前提にし,小集団がうまく機能すれば,国家権力のような上からの大きな権力はいらないと。市場+小集団によって国家的なものを自然に駆逐していく。今後の物語としては,ルフィとその父親,革命家ドラゴンの戦い,つまりアナーキズムコミュニズムの戦いが気になります。
それに対し,『ジョジョ』の場合は,個人的な欲望と自由を重視するタイプのアナーキズム。その場合,自分の無意識の欲望と,スタンド能力や形象が分かちがたく連動している,というのがポイントですね。たとえば『ONE PIECE』の場合,原理的に,キャラクターの人格や才能と,悪魔の実の能力は別に連動してはいない。現時点では,ルフィがゴムゴムの能力者である必然性はない。たまたまそれを食べただけ。逆にそれが面白い。普通,ゴムなんて主人公の能力っぽくないから。
それから,『NARUTO』の場合は,個々人の強さはチャクラというエネルギー概念によって説明されている。『ドラゴンボール』の「気」に近いけど,気の質がいくつかに系統分けされている。ただ,『ナルト』も能力と人格の間にあまり連動性は見られない。

横山:特にナルトについては,得意技の多重影分身は本から学んだ知識ですし。

野口:『NARUTO』は火や風など性質が決まっているだけですよね。

杉田:能力の発現の仕方と,その人の人間性・人格が不可分という『ジョジョ』の設定は,能力バトルの新しい地平を切り開いたのかもしれません。『めだかボックス』とか『東京喰種』は,その意味ではポスト・ジョジョという感じもする。実際,他者のスタンドの最大の恐ろしさは,人格の障害や狂気の部分だったりする。

横山:ある種の症状ということですね。

杉田:うん。逆にいえば,精神疾患人格障害などのハンディこそが,最大の強みになる。3部ではタロットカードのシャッフルによって能力名がランダムに決まったりして,まだ能力者の人格とスタンドの関係は薄かったけど,それが4部辺りからはっきりし出した。

■『ジョジョ』における「スタンド」とは何か

横山:やっぱり4部が切断線として大きかったんですかね。

杉田:緩やかな変化でしょうね。スタンドという概念が出てきたのは3部だけど,その時点では荒木さん自身も,スタンドという概念の革命性をちゃんと把握していなかったのかなと。

横山:そのタイミングが吉良吉影の登場と重なったということですかね。

杉田:たとえば虹村億泰のスタンド「ザ・ハンド」は右手で空間を削り取る能力なんだけど,物語の中で,京兆とかが「あんなに恐ろしい能力はない」と言っている。でも僕にはそれがよくわからなかったんです。ザ・ハンドって,そんなに強いかな?って。

升本:同系統の能力の,3部のヴァニラ・アイスの「クリーム」は「作中最強スタンドは何か」という話になると名前が挙がりますし,実際強かったですけど,その後に4部で出てきた「ザ・ハンド」は,能力としては,やや落ちるような気もしてしまいます。

杉田:で,作家の乙一が『The Book』という小説の中で,億泰の「ザ・ハンド」の何を考えているのかわからないあの顔――無や空虚というか,「存在しないこと」すら「ない」ような究極の無の空間がふいに現れて,そこにすべてが吸い込まれてしまう。それは本当に恐ろしいことだ,云々とザ・ハンドの恐怖を概念的に説明していたんですね。マンガを小説で二次創作的に補完しているわけだけど,そのザ・ハンドの解釈(翻案)はじつに見事だと思った。それは億泰が頭の悪い人間であることとも不可分でしょう。無意識の動物的愚鈍さの賜物なわけです。

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そうやってキャラクターの人格/能力の関連性を,あれこれ想像して読み解いていくのも面白いよね。本の中で書いたんだけど,たとえばブチャラティの「スティッキィ・フィンガーズ」はなぜジッパーという形象を取るのか。あるいはアバッキオの時間を巻き戻す能力「ムーディー・ブルース」は,なぜ自分の時間だけは巻き戻せないのか。

横山精神分析みたいな方向になっていますよね。

野村:『ジョジョ論』では,東方仗助の「クレイジー・ダイヤモンド」の解釈もそうなっていましたよね。

杉田:仗助のキレやすさはほとんど解離性同一性障害(多重人格)であり,子供の頃,自らのその暴力性を怖れたからこそ,仗助の能力は「他人の怪我や傷を治す」という「この世で最も優しい」能力になったのではないか。最大の弱さこそが最大の強みになる,というのがスタンドの特性だから。そんなことを書きました。
ブチャラティアバッキオのスタンドについての解釈を知りたい人は,ぜひ『ジョジョ論』を買って下さい(笑)。それらはもちろん,読者としての僕の勝手な二次創作というか,強引な「読み」であり,作者の荒木さんも多分そこまで考えてはいないでしょう。ただ,そこは読者の権利というか,マンガ内のキャラクターたちの「無意識」を読み取る自由があるから。もともと批評って,ただの解釈ではなく「創造的批評」のことだし。

野村:『ジョジョ論』の章立てそのものが精神分析っぽいですよね。僕はスタンドの記述を読んでいるとき,ずっとラカンのジョイス論を思い浮かべていました。スタンドそのものが,精神分析の臨床で読みこまれるものと重なっている。

杉田:文芸批評と精神分析の類似性はよく言われるけど,作者ではなくキャラクターを精神分析するって何でしょうね。『ジョジョ』はいわゆる「無意識過剰」なゾーンの大きいマンガだから,作者の荒木さんがどこまで意識しているか,無意識なのか,その境界は本当にわかりにくくて。普通の意味でのテクスト批評やサブカル批評には,じつはなじまないのかもしれない。

升本:荒木さんってキャラクターを細かく設定していて,全キャラの履歴書みたいなものを用意しているんですよね。そういうところから精神分析のしがいがあるようなキャラクターが導き出されるのかも。

杉田:好きな食べ物などまで書いているらしい。荒木さんの中では,ブチャラティのジッパーとかも,何らかの無意識的な連想や理由があるんだろう。しかも人格/能力,意識/無意識という二項だけではなく,そこにはスタンドのグラフィックという第三項の問題が入ってきます。

野口:図像の問題ですよね。

升本:超能力を絵として描きたかった,というインタビューを読んだことあります。

杉田:スタンドって,人間とも動物とも機械とも幽霊とも言えず,ほかにあまり類例がないグラフィックではないか。不気味な感じがします。なぜあんな異様な形象になっているのか。

野口:しかも人間と結びついていてダメージが伝わる割には,基本的には喋ったりコミュニケーションとったりはできないから,キャラクターとも言いづらい。

杉田伊藤剛が概念化したキャラクター/キャラの中間のようでもある。モデルとしては,つのだじろう『うしろの百太郎』や楳図かずおの『神の左手悪魔の右手』収録の「闇亡者」など,背後霊的なイメージを参照しているらしい。ただ,それが何を意味するのかは,やはりよくわからない。精神科医斎藤環さんが、スタンドはネオプラトニズムの流出説(万物は完全なる一者から流出した,という神秘思想)に近いとも言っていて,それは精神と肉体の関係を根本的に問い直すものであると。心身二元論では,肉体と精神は分離していて,肉体が不浄でも精神は清らかだと見なされうるけど,ネオプラトニズムではそれがあくまでも流出の段階的過程だと捉えられるから,肉体と精神が分離しつつも連続している。ただ,『ジョジョ』では時々,スタンドが本体から完全に分離した,独自の人格を持っていたりもするんですよね……。

升本:スタンドによりますよね。アヌビス神やチープ・トリックなどは,完全に本体から自立している。

杉田:本体が死んでも,スタンドだけ生き延びる,というパターンもあります。

横山:それだと図像の方の説明もできないですよね。

野口:しかも7部からはスタンドの図像が描かれなくなりますよね。

杉田:7部はスタンドの形象自体があまり出てこず,1部~2部の波紋にちょっと近づく。ちなみに8部の『ジョジョリオン』だと,ジャコメッティのようなすごく線の細い,アンバランスなスタンド画像になっている。いずれにせよ,なぜスタンドというグラフィックが出て来たのか,本当に謎めいている。ロボットアニメの身体性とも違うよね。僕の『ジョジョ論』では,スタンドの形象論,図像論はほとんどできていません。

野口:それらは「撹乱している」というあたりに落ち着いていましたよね。もっと先が読みたいと思ったのはこの点です。

杉田:僕は基本的にコンテンツ批評の人間なので,知識がない。いろんな人に研究してほしいなと。

横山:能力が人格みたいなものとして発現する作品は,最近だと『Fate』や『ペルソナ』シリーズが挙げられますけど,あれは過去の英雄やユング的なアーキタイプがもとで,集合的無意識に近い。『ジョジョ』はそれらとは違うということですね。

杉田:ちょっとロマン主義的な感じもあるのかな。その人の絶対的な個体性こそが才能の具現化である,というわけだから。ただし他方で,『ジョジョ』は物語もスタンドも,無数の引用の織物で成り立っている。そもそもスタンド名が外国ミュージシャンの名前や楽曲だし,能力やバトルも無数の映画の引用やオマージュ,パロディ尽くしです。

升本:名称については音楽が多いですよね。ほぼ洋楽ですけど,キャラ名だと7部のウェカピポとマジェント・マジェント,スタンド名だとチョコレイト・ディスコは邦楽。直接的に持ってくるだけでなく,アーティスト名と曲名を組み合わせて一人のキャラ名にしたり,正式名ではない通称を持ってきたりすることもあります。

杉田:特に3部は,映画からの引用がとても多いし(『チャイルドプレイ』とか『激突!』とか),7部辺りになると自己引用も増えてくる。色々な絵画からポーズや構図をパクっていると批判されたりもしますが……。ただ,それだけ引用だらけで,データベース消費的な面もはっきりとあるのに,なぜか画面の全面に荒木さん固有のオリジナリティのアウラが漲っている。それが不思議です。この辺は宮崎駿とかにも似ているのかな。

升本:『美術手帖』の「特集 荒木飛呂彦」(2012年11月号)では,西洋美術,バンド・デシネ,ファッション,モダンホラーの文脈からそれぞれ,絵について引用元などの分析がされていましたけど,それらが混合することで独自性が生まれているんですかね。『美術手帖』には斎藤環さんのスタンド論もありました。スタンドは現在進行形で増えていて,累計で150は越えて増え続けているし,今でもあらためて論じがいがありそうです。

美術手帖 2012年 11月号

美術手帖 2012年 11月号

 

杉田:スタンドはやっぱり不気味なんだよな。人形なのか機械なのか生命なのか動物なのか幽霊なのかわからない。見つめていると,なんか不安になる。

横山:たしかに『ジョジョ』の絵柄自体が不気味な形象を描くのに特化しているところがありますよね。スタンドという能力が自分のものなのか,外付けのものなのかということとも関わる気がします。

杉田:哲学者の國分功一郎氏の『中動態の世界』は,「ディオの世界」からタイトルを取ったらしいけど,確かに『ジョジョ』は全体的に中動態っぽいところがある。スタンドが主なのか本体の人間が主なのか,どちらが能動で受動で,どちらが操作して操作されているのか。

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

升本:主と従を考えるなら,スタンド能力の発現の仕方も奇妙ですよね。特殊な矢が刺さると発現するという設定はあるけれど。

横山:それだと外部から与えられている感じがする。

升本:でも,必ずしもそうじゃなくて,生まれつきスタンドを持っている人もいるし,ある歳になったら急に発現した人もいる。特殊な矢に刺されて,スタンド使いになれずに死んじゃう人もいるし。

杉田:ウィルス淘汰説という5部以降の話は,ダーウィン的思想を曲解した社会主義ダーウィニズム的な危うさがちょっとあります。そこに違和感があったから,僕の『ジョジョ論』だとあたかも「全員がスタンド使いになれる」という絶対的平等主義になっているんだけど,原典の『ジョジョ』には自然淘汰能力主義的な面がやはりあるとは思う。

野口:スタンドが発現しないというのは,欲望を持てない人がいるのかってことになる。

升本:6部に出てくる「ホワイトスネイク」は,スタンド能力をディスク化して人から取り出すけど,そのディスクを頭に刺せば誰でも能力が使えて死にもしない。そういう発現方法もあります。

杉田:なるほど,確かにあれは『fate』や『ペルソナ』みたいにデータベース化されている。ただし,ほんの例外でしょう。その人のスタンドを他の人間が使うことはできない。

野口スタンド能力の発現の仕方って,誰でも欲望を変えることは可能かもしれないけど,自分で変えることはできないという意味でもありますよね。

杉田:そこはやっぱり精神分析っぽくもありますね。

野村:固着している欲望を変えられるかどうかというのは,語るのが難しい話ですよね。たとえば,千葉雅也さんの『勉強の哲学』だったらどうしようもなく変えられないこだわり――「欲望の核」と呼ばれていたけど――は,最終的には深い勉強を通して変えることができると言われている。『ジョジョ論』でもスタンドは無意識の欲望なんだけど,それはある特別な経験を通して「変わることもあるかもしれない」。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

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杉田:そうですね,自力的に「変えられる」とは言えないけれど,本人の努力の上に,他力的な偶然が重なった瞬間に,欲望や生の様態は「変わりうる」かもしれない。

野口自己啓発的に読んじゃうと「誰でも変えられるよ!」って読めちゃうかもしれないけど,それは違う。

杉田:『ジョジョ論』では自己啓発と自己啓蒙を概念的に区別しました。自己啓発は資本主義的な欲望の自己強化であるのに対し,自己啓蒙はむしろ,資本主義に内在的に抵抗し,それを脱構築するようなミクロな欲望を無数に走らせていくこと。その意味で『ジョジョ』は自己啓発ならぬ自己啓蒙の書である,と。運命とは偶然的な出遇いを内面化することである,云々と哲学者の九鬼周造が言っているけれど,僕らの欲望や運命も,偶然的な他者との出会いにおいてしか変えられない。

野村:変えられるというよりは,変わりうる。出会いの中にある一つの可能性として「変わる」というものがある。

杉田:能動的に変えるんでもなく,受動的に変えられるのでもない。たとえば「巻き込まれる」という言葉もキーワードになっていて,他者や環境とか,色々なものに巻き込まれながら自ずと変わってしまう。変えられてしまう。それによって人は宿命論の呪縛を超えて,自分に固有の運命に覚醒できる。運命とは「命」を「運」ぶことだ,というセリフが『ジョジョ』はあります。決定論(宿命論)でもなく,自由意志説でもない,そういう運命という経験を,荒木さんはギリギリ信じているのかもしれない。自力や自助努力はもちろん,じつは他者とのコミュニケーションや対話によっても人は変わることができないけれど,環境や他者の欲望にどうしようもなく巻き込まれて,そのうちに変わっていくことがある,そのことを運命として明らめろ=諦めろ,という感じかもしれない。

構成・遠野よあけ+座談会出席者

(Part2に続く)

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