クライテリア

批評誌『クライテリア』によるブログです。

横山宏介「(NEVER) ONCE (OR TWICE) UPON A TIME IN J...」(阿部和重『オーガ(ニ)ズム』論先行公開)

第二十九回文学フリマ東京にて初頒布となる『クライテリア4』掲載論考、横山宏介の「(NEVER) ONCE (OR TWICE) UPON A TIME IN J...」の前半部を先行公開する。
この論稿は、2019年9月に刊行された阿部和重『オーガ(ニ)ズム』作品論である。
なお、論考には作品の深刻なネタバレが含まれている。注意して頂きたい。(編集部)



「(NEVER) ONCE (OR TWICE) UPON A TIME IN J...」
横山 宏介


一 序

 このご時世に本を読んでいるなんて、あなたはきっと大変な変わり者だ。そう断じられてもまあそうかなという気もする程度に、見渡す電車のひとびとはスマートフォンばかりをいじっている。活字離れが言われはじめたのはいつ頃だったかと思い、自らもスマホを取り出し検索窓に字を打ち込む。「活字離れ」。トップページに出てきたニュースサイト*1は、次のように教えてくれる。

はじめて「若者の活字離れ」という言葉が使われ始めたのは一九七七年ごろだと言われています。
それから現在にいたるまで、約40年もの間、活字離れが進んだことになります。

 同記事は「生活の多様性」の増大と余暇の「時間の減少」によって、この四〇年のあいだに活字離れが進んだとしている。その一方で、「常時ネット空間と繫がること」によって文字を目にする機会自体は増えているとも指摘する。

パソコンや携帯電話の画面に表示される情報も、文字の羅列です。それをも活字に含めるとしたら、「活字離れ」という表現は当てはまらないでしょう。むしろ、活字を目にする時間や空間は増えているのではないか、とすら感じます。

 たしかにこのニュースサイト自体がそうであるように、「パソコンや携帯電話の画面」に表示される「文字の羅列」を「目にする時間や空間は増えている」。にもかかわらず「活字離れ」が言われる理由を「新聞の発行部数や本の販売額の減少」にもとめる同サイトは、画面上の「文字の羅列」については次のように記している。「それを活字として認識しているかどうか。そこを考える必要があるでしょう」。
「文字の羅列」と「活字」の間にいかなる違いがあるのか。「そこを考える」ことこそが自らの役割だとでもいうように、二五年間「文字の羅列」についての小説ばかりを書き記してきた作家がいる。
 その男の名は、阿部和重という。四半世紀にわたる小説家としてのキャリアを、彼は次のような話題とともに始めていた。

 なぜ「活字」から「映像」へなのかといえば、まず「活字」は読むのがめんどうなのだそうだ。無論それはごもっともな意見である。[……]それがひとつの事実とやらなのだとしたら、ひとはいまだに「活字ばなれ」していないというのも事実である。現にひとは「言語」を介してしかコミュニケートする手立てを知らぬではないか。日本人は「活字ばなれ」しているといってまもなく、まさにその舌の根も乾かぬうちにニュース原稿として手元にある紙片に記された「文字」へ眼をやる「ニュース・キャスター」と名乗るそのひとは、はたして「活字ばなれ」しているのだろうか。(『アメリカの夜』、講談社文庫、二一頁)

 この記述は八ページにわたり、作者の分身らしい主人公「中山唯生」が「活字のひと」であることを紹介していく。一九九四年が初出の同書で、「活字」は「映像」との対比で記述されているが、メディアの趨勢が「映像」から「パソコンや携帯電話」に移るにつれ、阿部はインターネット上の記事を小説に引用する手法を好んで用いるようになる。本稿で取り上げる彼の最新の著書『オーガ(ニ)ズム』(二〇一九年)も例外ではない。同作を開いた読者がまず眼にするのは、バラク・オバマの自伝と並びおかれた、オバマが日本を訪問した際のニュース記事だ。
 現実のウェブサイトに散らばるテクストを小説に織り込むその手付きは、「文字の羅列」と「活字」に差などないと表明しているかのようである。しかし現実のテクストと虚構のテクストが「文字の羅列」という点で等価なのだとしたら、「常時ネット空間と繫が」り「活字を目にする時間や空間」がかつてなく増えたいま、あえて虚構が書かれ/読まれることの意味はどこにあるのだろうか。
 本稿では現時点での阿部の小説の集大成である『オーガ(ニ)ズム』を紐解き、ひとがかつてなく「文字の羅列」に曝されている時代に、おなじく「文字の羅列」である小説はどうありうるかを考えていく。「活字」が溢れているがゆえに「活字ばなれ」が進む逆説の時代、そのさなかに「活字のひと」となった阿部和重の実践は、きっとこの問いに応答しつづけている。
 では『オーガ(ニ)ズム』とはどんな小説なのか。それは陰謀をめぐる小説であり、陰謀論をめぐる小説であり、陰謀としての小説であり、陰謀論としての小説である。

二 陰謀をめぐって――物語

 作家が自身の故郷を虚構化し舞台としてきた「神町トリロジー」の三作目『オーガ(ニ)ズム』は、二人の男――「阿部和重」という名の小説家と、「ラリー・タイテルバウム」というCIAのケースオフィサー――がある陰謀を阻止する物語である。その陰謀とは第四四代アメリカ大統領バラク・オバマの二〇一四年四月二五日の訪日に合わせた、「スーツケース型核爆弾」による日本の首都での爆破テロ計画を指す。
 だがその「日本の首都」とは東京ではなく、「東京ではないほうの都内・・・・・・・・・・・」である。作中の日本では、二〇一一年七月に永田町直下で起きた地震により国会議事堂が崩落し、山形県の田舎町にすぎなかった神町へと「首都機能移転」が行なわれているのだ。オバマは東京都と「新都」神町、二つの首都を訪問する。こうして現実の出来事と虚構の出来事が織りあわされるわけだ。
こうしたプロットを持つ同作ではスパイ映画のような情報戦が展開し、阿部が置かれた状況を喩える実在の映画名、そして「情報」そのものであるWikipediaやニュース記事の引用が無数に織り込まれる。

 ところがさらに時が飛んで二〇〇六年一月四日水曜日、毎日新聞が新年早々にやばいネタをぶちこんでくる。「IAEAウクライナを核査察 解体後の実態解明へ――今月から」という記名記事は、二〇〇四年当時のウクライナ外務省の声明やロシア軍の元副参謀長の見解に疑問をさしはさむものだ。

【ウィーン会川晴之】国際原子力機関IAEA)は1月からウクライナを対象にした核査察を実施する。[……]
 ウクライナ核兵器をめぐっては、アラブ系紙が04年に「ウクライナの科学者が98年にアフガニスタンアルカイダにスーツケース爆弾を売却した」と報道したほか、ウクライナ議会の調査委員会も12月に「保有していた戦術核と、ロシアに移送された戦術核の数が合わない」と指摘する調査報告書を発表している。

 真相はなおも不明であると受けとめて、阿部和重は『ミステリアスセッティング』に着手する。ロシア製のスーツケース型核爆弾は、実在するのかもしれないし、実在しないのかもしれない。過激派組織の手に渡ったのかもしれないし、渡っていないのかもしれない。どちらともつかない世界の内実の、異なる可能性どうしの重なりあいへと意識を寄せながら、当の小説を書きすすめた。
 原稿を書いている途中、小説家はふと思ったことがある――まさか二〇一一年夏のあの夜、永田町一丁目の地下で爆発したのは、ウクライナで紛失したとされるほんものの移動式戦術核兵器、スーツケース型核爆弾なのではあるまいなと。そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。しょせんは陰謀論者らのもてあそぶ、毎度おなじみの妄想なのかもしれないし、地下核爆発地震原因説こそが事実を言いあてているのかもしれない。阿部和重の脳裏では、今なお異なる可能性どうしの重なりあいがつづいている。(『オーガ(ニ)ズム』、六四――六五頁。以下、ページ数のみ示した引用は『オーガ(ニ)ズム』から。また特に断りがない限り、傍点は原文のもの。)

 ここで登場する「『ミステリアスセッティング』」は「阿部和重」が記した小説だが、現実の阿部和重が記した現実の『ミステリアスセッティング』(二〇〇六年)とは別のものだ。ある少女がカウントダウンを始めた「スーツケース型核爆弾」を押しつけられ、その被害を食い止めるため地下鉄永田町駅の深部へ向かい、二〇一一年七月一六日に核爆発の唯一の犠牲者になるというプロットは変わらない。しかし『オーガ(ニ)ズム』の作中において永田町直下地震はじっさいに起こっており、したがって「『ミステリアスセッティング』」もまた、二〇一二年に事実に着想を得て書かれたことになっている(ちなみに連載媒体もケータイ小説から「スマホ小説」に改変されている)。
 似たような処置は『ニッポニアニッポン』(二〇〇一年)にも行なわれており、こちらは「ノンフィクションノベル」とされ、「佐渡トキ保護センター襲撃事件」を起こした主人公「鴇谷春生」は実在すると記される。あたかもドラえもんの「入りこみ鏡」のなかのように、反転した世界がそこにはある。たとえ「阿部和重」のWikipediaのプロフィールが「テロリズム 、インターネット、ロリコンといった現代的なトピックを散りばめつつ、物語の形式性を強く意識した作品を多数発表している 」という、現実の阿部和重の「テロリズム、インターネット、ロリコンといった現代的なトピックを散りばめつつ、物語の形式性をつよく意識した作品を多数発表している」といかに似かよったものだとしても、それは現実の阿部の鏡像にすぎないのである。
「鏡」、あるいはそれが生み出す分身や対関係は、阿部和重が酷愛してきたモチーフである。たとえば『アメリカの夜』は鏡を巡る記述から始められ、中山唯生は主人公の唯生と語り手「重和」の二人格に分裂する。あるいは「神町トリロジー」の関連作に少女が登場するとき、彼女たちは必ず二人一組の存在である。春生から「見た目が瓜二つ」と評される『ニッポニアニッポン』の「本木桜」と「瀬川文緒」、『ミステリアスセッティング』の主人公「シオリ」と「年子の妹」の「ノゾミ」、『グランド・フィナーレ』(二〇〇五年)に登場し主人公にお芝居の教えを乞う「双子みたいな二人」「亜美と麻弥」。そしてその二人を作中に呼び出すトリロジー二作目『ピストルズ』(二〇一〇年)が、ほとんど女性たちの「対偶」の物語であることは、批評家の渡部直己が指摘するとおりだ*2
 この少女たちの対には必ず死の影がつきまとうのだが、ここでは詳述しない。指摘しておきたいのは少女ならぬ二人の中年男が死を防ぐために奔走する『オーガ(ニ)ズム』においても、対偶関係が貫かれていることだ。阿部とラリーのバディの旅程は、映画の名前や記事の引用に並んで様々な「二」に彩られている。
 物語の最初、罠に陥れられ血塗れのラリーが阿部の家に転がり込んだ際、助けを求めた「深沢貴敏」は「ジャンボ尾崎」のような相棒を連れてくるし、仲介をした阿部の担当エージェントの名は現実の三枝から「仁」枝に置き換えられている。小説の全体は東京と神町という、二つの首都の移動によって駆動されており、やがて二人の前には同じくCIAケースオフィサーの「エミリー・ウォーレン」と現地協力者「麻生未央」の二人が現れる。お互いがお互いを陥れたスパイなのではないかと疑うラリーとエミリーは、二人が罠に嵌められた際に鏡のように付いた「おなかの傷」を見せあうことで互いを信用し、未央が連れているマルチーズは当然「花と龍」という「二匹」である。そのマルチーズをはじめ、わざわざ犬笛という小道具を導入してまで作中やけに姿を見せる犬の鳴き声すら、「わんわん」すなわち〈一一One-One〉に見えてくる――というのはさすがに冗談にせよ、そのような冗談が口をついて出るほどには『オーガ(ニ)ズム』にはバディが溢れている。なによりそのタイトルの中心には「ニ」がこれ見よがしに刻まれているではないか。
『オーガ(ニ)ズム』のタイトルは阿部とラリーという「(二)」が、スーツケース型核爆弾の爆発という絶頂オーガズムを中絶させ、機関=生命体オーガニズムとしての国体を守るのだという二重の意味を予告している。

三 陰謀論をめぐって――読解

 しかし物語の終盤に、このプロットはひっくり返されることになる。阿部とラリーが追ってきた爆弾テロ計画それ自体が、敵対組織によるブラフにすぎず、二人が得ていた情報も敵の管理下にあり、そしてスーツケースに詰められた放射性物質は温泉用のラジウムでしかなかったと判明する。阿部とラリーはいわば、陰謀としての陰謀論に躍らされていたのだ。戦術核の爆発という「オーガズム」は、そもそものはじめから中絶していたのである。
 だから斎藤環がすでに指摘しているように、本作ではトリロジーの前二作と異なり「まったく殺人が描かれない」し、「ついでに言えば本作では男女間のセックスも描かれない」*3。作中に登場する「There are pistils, but no seed」という(「種なし大麻」を意味するトリロジーの一作目『シンセミア』(二〇〇三年)、および二作目『ピストルズ』を意識させる)言葉は、本作が去勢されていることを示している。この言葉が暗示になったかのように、作品終盤、ラリーがある人物に突きつけたピストルからは、あらかじめ銃弾が抜き去られているだろう。
 だがより正確にいえば、「殺人」や「セックス」という「オーガズム」は、すでに起こってしまっている・・・・・・・・・・・・・。スーツケース型核爆弾は『ミステリアスセッティング』で永田町を崩落させていたのだし、トリロジーの前二作は「神町」に性と暴力を蔓延させており、その性/暴力の産物は『オーガ(ニ)ズム』の終盤の展開に深くかかわってくる。そして阿部とラリーの旅には、すでになされてしまった性の結実である阿部の息子「映記」が三人目として同行している。つまり『オーガ(ニ)ズム』は、事後の物語なのだ。だから物語の冒頭八分の一ほどには、つぎのような驚くべき一文が読まれる。「阿部和重が、半信半疑のどっちつかず状態より完全に解放されることになるのは、それから二六年後の二〇四〇年まで待たなければならなかった」(九三頁)。一見現在形に見える語りの視点すら、すべてがなされたはるか事後から『オーガ(ニ)ズム』を語っている。
 達成された絶頂オーガズムは、生命体オーガニズムを生み出す。そこに核爆発による去勢を経て成立した国体を重ねることは不自然ではないだろうし、阿部の誕生日である秋分の日(九月二三日)と対になる春分の日(三月二一日)を誕生日に設定された映記が、作中の二〇一四年春の時点で二歳から三歳を迎えること、すなわち二〇一一年三月の生まれであることもただならぬ意味を帯びてくる。
 止めるべき陰謀は存在しない。なぜなら核爆発という絶頂は、すでに達成されてしまったからだ。あったのはただ、陰謀をめぐる言説、すなわち陰謀論だけである。その事実に直面した時、阿部和重ははじめて「ひとりになりた」いと願う。陰謀を防ぐための「二」は、もはや必要とされないからだ。

 そうか、おれはひとりになりたかったのかと、はたと自覚をえる。ラリーほどではないにせよ、午前中の出来事のせいで自分も結構まいっているのだなと気づかされた四五歳七ヵ月は、迷路じみた園路の散策をつづけるうちにいつしか公園の最奥にやってきていた。ここがどんづまりらしい。(七三五頁)

「午前中の出来事」とはスーツケースの正体がラジウムと判明した一件を指す。この場面は阿部とラリーの二人を描いてきた『オーガ(ニ)ズム』で、阿部がほぼ唯一の例外として、ラリーとの通信手段を持たぬまま「ひとりにな」る場面である。すこしあとにはこう続く。

 帰り道は往路とは別のルートをたどってみると、カフェのほうには向かわず公園の東側にある正門広場に出てきてしまった。正門を抜けてすぐのところに見えている道は、一時間くらい前にラリー運転の車で通ったあの片側一車線道路だ。
 その沿道には、二件のひき逃げ人身事故の目撃情報を募る立て看板が個別に設置されているほかに、交通規制の案内板が立てかけられていて、四月二五日金曜日にアメリカ合衆国大統領一行の車列がこのあたりを通るため一時通行どめとなることが予告されている。(七三六頁)

 ここで「二件」の看板はもはや「個別に」設置されている。なによりその道が「片側一車線道路」であることは、二人の離別を象徴するようだ。そして実際、物語のクライマックスは、この「片側一車線道路」で起こることになる。翌日、阿部は同じ公園でラリーとともに敵対組織の黒幕(当然二人連れである)と対峙するが、自身の傍らに映記がいないことに気づき、映記の吹く犬笛を頼りに、一人公園を奔走する。

 犬笛が鳴っているのは広場の外のようだ[……]というより公園の外、片側一車線道路のほうから笛の音が響いてきているのがわかった。まさか映記とマルチーズたちは、車道へ出ていってしまったのではないか。
 まずい車に轢かれると思い、阿部和重は全力をこめてもう一度ダッシュした。[……]思いがけない場面が視界に入りこんできて目を見はってしまう。[……]ラリー・タイテルバウムが両手をおおきく振って正門広場を突っきり、犬笛の鳴る片側一車線道路へと父親よりも先に駆けつけようとしていた。[……]正門を抜けて園外へ出ていったラリーが目にしたのは、片側一車線道路のどまんなかにいて花と龍を懸命に抱きあげようとしている映記の姿だった。[……]ラリーは、ただちにガードレールを飛びこえてアスファルトの路面を駆けてゆく。[……]道の中央でたたずみ、車列の進路に立ちはだかる格好をとった彼は、伸ばした両手を左右に振って大統領一行に緊急停車を迫ったのだ。
 ラリー・タイテルバウムがそのとき右手に三八口径のリボルバーを握っていたことは、不幸な偶然の重なりだったと言うほかない。[……]ラリーは大統領一行の車列を停車させることには成功した。映記と二匹のマルチーズが車にはね飛ばされるのを彼はふせいだのだ――だが、銃を片手にアメリカ合衆国大統領を足どめさせた以上、無事では済まない。[……]かくして、その後ほどなく単発射撃にセットされたM4カービンのトリガーがひかれて5.56×45mmNATO 弾がいっぱつ発射され、ラリー・タイテルバウムのへその右横あたりがまっ赤に染まることになる――(八一五――八一八頁)

 こうして、阿部とラリーの二人の物語は終わる。この出来事の後、視点人物がバラク・オバマへと移ったのち、二六年後の阿部の視点から後日談めいた話が語られる。そこではじめて、敵対組織の目論見が明らかになる。「日本がアメリカの五一番目の州」となり、「アメリカを内側から乗っとる」こと。ここでも対関係が解消され、国体は一つになる。だからこの小説は、つぎのように結ばれる。

窓外を眺めていると、かつてハリウッドサインと呼ばれていた看板が遠くに見えてくる。今ではHOLLYWOODのLがひとつ抜けてHOLYWOODになってしまっているが、それがだれの仕わざなのかはわかるようでわからない。(八五七頁)

四 陰謀として――テクスト

 以上が二の、そして二の失調の物語としての『オーガ(ニ)ズム』の相貌である。このような読みは、現実と虚構という二つの鏡像を、「文字の羅列」という一つの水準に置いてきた「活字のひと」に似つかわしいものであるだろう。じっさい『アメリカの夜』の冒頭、「活字ばなれ」についての記述の直前で、阿部和重が作家としてとった態度は、「鏡」を見ながら行なわれる「型」への批判だった。

「鏡」を見ながらの技の確認は、いつしか見る側に立つものが、反映された自身の技へおのれの身振りをちかづけているというような逆転現象を生じさせるであろう。「鏡」を見ることによって自分の技を変化させ、修正させることで、見る側のものが、「鏡」に表象されたおのれを模倣し、反復しているのである。「自覚」を推しすすめることによって、「自己」が消える瞬間。そこに残されるのは、「日常性」ばかりである。もはや、闘いの相手は消え、自己も消え失せている。そのときはじまるのは、すべての「型」を無効にしてしまう現実との、たえることのない闘争ではないのか……(『アメリカの夜』、一四頁)

 阿部和重は「物語の形式性をつよく意識した作品を多数発表して」おり、自ら「形式主義者」を標榜していることで知られている。彼にとって形式=「型」とは「日常性」のなかへと自己消滅するためにある。あるいはごく一般的に言って、ひとが「鏡」を覗くのは、その前から立ち去り日常へとむかうためのはずだ。すなわち虚構という現実の鏡もまた、崩されるべき「二」であるというわけだ。
 でも、本当にそうだろうか。たしかにここまで書いてきたとおり、一たび二に注目してしまえば、『オーガ(ニ)ズム』は鏡像関係をめぐる物語に思えてくる。しかしこのような読み方自体が、ある種の予定調和を感じさせるのもたしかなのだ。言い換えればこの小説は、「二」についての読みを誘発するための、陰謀として差し出されているのではないか。
 ではここまでの読みで、はたして「型」は無効になったのだろうか。むしろこのような読みは、日常=現実を「型」=虚構へと押し込めてしまっているだけのではないか。だとすれば、さらに形式性への「『自覚』を推しすすめ」、それを「日常性」へとひらいてみる必要がある。

(……この続きは、11月24日の文学フリマで初頒布の『クライテリア4』本誌掲載の論考をご確認ください)

*1:「40年間続いた「若者の活字離れ」。書店店長が今、思うこと」、『PHPオンライン 衆知』。

*2:渡部直己阿部和重の対偶技法―『ピストルズ』と『金枝篇』」、『小説技術論』、河出書房新社、二〇一五年所収。

*3:斎藤環「『純粋物語』の誘惑」、『文學界』二〇一九年一〇月号所収。