クライテリア

批評誌『クライテリア』によるブログです。

杉田俊介さんと『ジョジョ』座談会 part3【完】

ジョジョ論』(作品社)の著者・杉田俊介さんと,クライテリア編集部4名による『ジョジョの奇妙な冒険』(以下『ジョジョ』)座談会記事・第3部をお届けします(収録は2017年7月)。例によって,記事内ではネタバレには配慮しておりません。そして最終回です。

ジョジョ論

ジョジョ論

 
■参加者

杉田俊介:75年生。『ジョジョ論』著者。
(以下,クライテリア編集委員
野口直希:91年生。(@N929pop
野村崇明:94年生。(@mihailnomrish
升本雄大:84年生。(@masumoto_
横山宏:91年生。(@gexive_boyz

part1・part2は,こちら。

 

■『ジョジョ論』の射程と資本主義と『ジャンプ』漫画

野村:僕が『ジョジョ論』の中で個人的に面白いと思ったのって,途中でバフチンと資本主義の話を出してるところなんですよ。バフチンと資本主義の話は僕もけっこう考えてる話で。たしか僕の記憶だとバフチンが資本主義の話をしているのはドストエフスキー論の第一章にあって。ドストエフスキーの,色々な身分違いの人間がいっぱいいて喋りあう感じは,資本主義の世界で異なる階級同士が交流できるようになった影響なしにはありえないという話がある一方で,確かにそれは正しいが,しかしそれだけだと甘い部分もあって,だからバフチンドストエフスキーを小説論として語っているんですね。

杉田:世界資本主義のパワーが閉じた共同体を強引に結合させて,後進国だったロシアの状況を滅茶苦茶にしてポリフォニックにしていく,という感覚がドストエフスキーの小説のデフォルトであって,しかしそのカオスの中から,経済と宗教と芸術と性愛を同時に新次元へと開くようなイデー(理念)も出てくる,小説というジャンルにはその可能性がある,バフチンはそういうヴィジョンを持っていたと思うんです。
しかしそれならば,現在のインターネットとグローバリゼーションの中で,新しい関係や結合が世界規模で生じているけど,その中で人間の精神はいかに変化し,どんな芸術や文化が生まれてくるのか。新たな世界的理念とは何か。つまり,現在的環境のもとで『ドストエフスキー詩学』やベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』のような革命的な批評を書けるのか。そういう議論は僕には力不足で全然できませんでした。最後の方で松本卓也さんやカトリーヌ・マラブーを少し参照したんだけど,本当はバフチンをそこに接続して,資本主義論と精神分析と複製芸術論の可能性を『ジョジョ』によって更新したい,という壮大な野望もあった。もちろん,とてもそこまではいけなかった。
ただ,そういう革新的な仕事は,ネット時代の若い人たちの批評的使命なのかな,という気もします。

横山:それは世代的な問題ということですか?

杉田:世代論というか,ネット以前・以後という切断を受けているか。僕はたぶんネットがなくても生きていける。それに対し,東浩紀さんや藤田直哉君の思考は,根本的にネットの去勢を受けていると思う。だから何を論じても必ずその問題が出てくる。そもそも『ジョジョ』の世界にはネットが基本的に必要ない。ネットを媒介するスタンドとか,殆ど出てこないでしょう。

升本:確かに,インターネット登場以後の時代を描いているはずの4部(舞台は1999年,連載は1992~1995年),5部(舞台は2001年,連載は1995~1999年),6部(舞台は2011年,連載は1999~2003年)では,あまりネットが登場しないですよね。近未来として描かれていたという理由はあるにせよ。

杉田:8部の康穂のスタンドはスマホだけど,どっちかというと昔ながらの「地図」が趣味なんだよね。ネットの問題に対峙できないのが,僕の体質的な「古さ」です。ネットが世界を革命する,というカリフォルニアイデオロギー的な感覚が欠落している。テクストに『ジョジョ』を選択した時点で,問題を避けたのだとも言える。やっぱり若い人の仕事だと思うんだけど,ただ逆に言えば,ネットやコミュニケーションの問題と「同時に」,労働や資本主義の問題も扱う,そういう理論を練り上げてほしい。バフチンベンヤミンドゥルーズも,両面あるわけだし。

野村:『ジョジョ論』の中で,かなり論じられてはいるんだけど,ある種投げだされた問いの一つとして,スタンドと資本主義の関係があると思うんです。つまり,スタンド使いは全員がバトルによる価値評価の世界にいる。

横山:競争とインフレの世界だね。

野村:しかしそのなかでスタンドというものは,単純な強さ弱さで計れるものではないじゃないですか。『ドラゴンボール』だったらスカウターで戦闘力5と測られるけど,スタンドはそういう数値ではない形でそれぞれ特徴をもっている。だからそこにはなにか,資本主義の中のオルタナティブな資本があるのではないか。といった話がけっこう出てきている気がしていて。

横山:なるほど。違う価値尺度ですね。

野村:そういう部分が,杉田さんの今までの経験,つまり,労働の問題であったり,障碍者支援であったり,というところとも関わっているんじゃないかと思いました。

杉田:たとえば僕はやっぱり「資本主義」という表現じゃないと,しっくりこない。現在の論客の多くは市場経済とかマーケットという近代経済学的な言葉を選ぶでしょう。しかし,市場経済だとwin-winの関係になるから,激烈なバトルモードにはならない。今のリベラルな左派も,金融政策や制度設計をうまくコントロールすれば,マクロ的にみんな平等に幸せが押し上げられる,という世界観ですよね。

横山:でもその世界観はジャンプ自体にない気がしますね。ハイパーインフレの世界があって,全体が徐々に強くなっていくっていう感じではない。あれは市場経済というよりも資本主義的な競争というほうがマッチしている気がする。そういう方向ではやっぱり『ONE PIECE』の「懸賞金」は象徴的ですね。そしてそれの極限の形をやって,失敗したのか成功したのかよくわからない『トリコ』がある。

杉田:なるほど。さっきもいったけれど,『ドラゴンボール』は純粋な経済的自由主義リバタリアン)に近い世界観だと思うけど,それ以降のジャンプの代表作は,そこにそれぞれ政治思想を組み合わせているのが面白い。『ONE PIECE』では,世界政府のグローバルな上からの正義というのは,むしろ人々の自由を抑圧するものです。それに対してルフィたち海賊は,自発的で自由な少人数の連合ですよね。上からの統制がなくても,カオスの中から自生的秩序が立ち上がってくる。そういう意味でのハイエク的なアナーキズム。一方で『NARUTO』は政治思想的にはコミュニタリアニズム

升本:『NARUTO』の忍者はそれぞれ「里」に所属していますものね。 

杉田:『NARUTO』の物語後半では,大国間の帝国主義的な関係というかパワーバランスが重要になってくるんだけど,基本的には地縁的な里のコミュニティがいちばん大事。
それに対して『HUNTER×HUNTER』では,重要な局面で必ずゲームが出てくる。キメラアント編の軍棋もそう。王とコムギは『幽☆遊☆白書』の仙水と忍みたいに物語から脱落して消えていく。ゲームをしながら死んでいくのが唯一の幸せというか。現実的には殺し合いしかないけど,ゲームの世界では非暴力的に,お互いを高めあって,分かり合える。いわばカント的な統整的理念としてのゲーム。

横山:王とコムギの最期は名シーンですよね。

杉田:ゴンの父親が作ったグリードアイランドも,プレイヤーが殺しあわないためのゲームとして設計されている。会長選挙編も選挙ゲームですよね。
ただ,今の若い人たちはジャンプ的なインフレバトルをどう読んでいるんだろう。最初からそんなインフレ的な感覚はないのか。それとももっとシビアなのか。たとえば『鬼滅の刃』って,全く救いがないじゃないですか。あれって,敵側の鬼の組織は超ブラック企業なんだけど,じゃあ主人公たちの組織はホワイトかというと,全然そんなことはない(笑)。鬼殺隊の子供たちもすごいスピードで死んでいく。どっちに転んでも超ブラック。子どもたちが死の瞬間にほんの少し恩寵を感じられるか否か,それくらいしか救いがない。

升本:一番最初の鬼殺隊の隊員試験も受かった5人くらい以外は死んじゃったみたいだし,せっかく受かって鬼殺隊に入ってもがんがん死ぬ。で,限られたトップグループの「柱」になっても死ぬ。みんな死んでいく。むしろ,あれが若い読者にリアリティあるものとして受け取られて,ヒットしているのかもしれないですね。『鬼滅の刃』は癖が強くて,見たことない漫画だと感じるし,本当に頑張って描き切って欲しい。

野口:それと対称的なのが『ワールドトリガー』かなと思うんですけど。あれ超平和になっていく。

杉田:ただ,『ワートリ』は過去にたくさんの仲間が戦争で死んだから,なるべく死者が出ないシステムを皆で徹底的に考えぬいて、技術的に構築した,っていう設定が段々明らかになってきましたね。その辺が葦原さんらしい。ひそかに戦後や震災後の日本に対する批評にもなっている。

横山:キャラもどんどん増えていって,しかも全員固有名がついていて,読んでいてちょっとごちゃごちゃする(笑)。

杉田:でも,人物の描き分けが難しそうな絵柄なのに,ちゃんと描き分けができていて,あれはすごい。オペレーターの女の子たちとか。

升本:そこは本当にすごいですよね。『ワールドトリガー』で使われるキャラの顔のパーツは,パターンがそんなに多くなさそうなのに,ちゃんとキャラの区別がつく。

杉田:『ワートリ』は,手塚治虫の記号的なキャラクターの究極系だよね。手塚的な「記号の順列組み合わせ」だけなのにね。でも葦原さんも首をおかしくして長期休養中だし,最近は何人もペン入れナシの原稿を載せているし……。『鬼滅の刃』もカラーやりすぎでヤバい。

横山:表紙になったときの目が怖い(笑)。ちょっと話戻りますけど,さっきの政治思想的な意味で,『ジョジョ』の後継者的なポジションはないんですか? 『ジョジョ』自体がまだ連載中なのであれですが。

杉田:うーん。誰がいるかなあ……。

升本:『ジョジョ』は,直結の後継者というより,薄く広くマンガ界に浸透している感じがありますよね。

野村:後継者云々というのとはちょっとずれてまた話が戻っちゃうんですけど,時代のリアリティという問題でいうと,『ジョジョ』はたぶんそこまで時代のリアリティを掬い取ろうとしているわけではないですよね。少なくとも『ジョジョ論』の論旨のなかでは,1部から7部までにかけて,ある種自己展開しているというか。

野口:後継者は出来えないってことですかね。自分で自分を乗り越えていくから。

■同時代批評・コンテンツ批評

横山:ところで,杉田さんは『ジョジョ論』を書く時,同時代の思想は意識されましたか?

杉田:いやあ,あんまりできていません。どちらかというと,自分のかつての就職氷河期的な労働のリアリティや,NPOでの障碍者介護の経験を、何とか頑張って「思想化」してみた,という感じかなあ。多少はローティとか,マラブーの話も繋げていますけれど。ただ,あんまり思想界隈の空気を読んだりしていないがゆえに,逆に変な同時代性が生まれていればいいな,とは思っていますけれど。

野村:哲学がいま,人間をどう考えるかみたいな形で進んでいる状況のなかで,人間の内面のある種の気高さにレイヤーを当ててしまうと,どうしても古く見えやすいというか。それは僕もラカンの文脈に依拠している人間なので,それだけで古く見られやすいっていう。

杉田:実存的な文芸批評のスタイルによって,現代的なポップカルチャーを論じる,っていうのが最近の僕のスタイルだから,僕はもっと古いかもしれない(笑)。コンテンツ批評って,今あります?

横山:少ないと思います。特にある作品を徹底的に論じるっていう単巻ものは,それこそ杉田さんの一連の本以外,パッと思いつかない。

野村:個人的な実感なんですけど,コンテンツ批評がある種コンテンツ批評を超えた凄みを持ちえたのって,やっぱり政治や社会について直接語る言葉がなかった時代だったと思うんです。でも,現代というのはコンテンツを通さなくても,政治や社会の問題点を直截に語ることができてしまう。わかりやすくトランプは悪者だし,同時にトランプを出してしまうような状況を作ったヒラリーといった存在も問題だし,現代の日本にしても,やはり安倍は問題だけど,しかし安倍に対して何の代案も出せない民進党も非常に問題である。みたいな形で,わかりやすく直截に政治を語る言葉がいっぱい溢れてる状況のなかで,コンテンツ論が社会を語る言葉足り得るかというと……。

野口:コンテンツ論がなくなったというより,コンテンツと社会をつなげる言葉がなくなりつつある。

杉田江藤淳吉本隆明,それからある時期までの東さんにはあったけど,強度のあるコンテンツを論じることが社会全体を論じることだ,という回路が今は成り立たないんですかね。(注・その後、宇野常寛氏の『母性のディストピア』が刊行された。ガチのコンテンツ批評から社会批評へ突き抜けていく、いい本だと思います。)

母性のディストピア

母性のディストピア

 

野村:だから正直,僕自身もコンテンツ批評を書く時に,これを書くことがコンテンツを論じること以上の広がりをもつにはどうすればいいのか,っていつも悩んでいます。

横山:それこそ文芸批評が流行らなくなったのはそういう理由ですよね。

野口:逆にネットだと,コンテンツについて各話レビューを細かくやるみたいなものがあって,そういう需要はあるんですけど。

野村:コンテンツ批評に好きなもの擁護以上の意味をもたせるのが難しいというなかで,ある意味コンテンツの問題は,社会というよりも人間の問題になりやすい。

升本:『ジョジョ論』にも「よりよく生きる思想を学ぶ」というキャッチコピーがつけられていますよね。

杉田:『ジョジョ論』は,いわばオルタナ自己啓発の本を目指してもいるから……。

野村:『ジョジョ論』がコンテンツ論として意味があるって思ったのが,普遍化できないような一瞬の奇蹟のようなものを拾い上げようとしていたところなんです。殺人鬼である吉良吉影にも,家族との関わりを通して全く違う生き方の可能性があったのかもしれないという読みって,普遍化できないわけですよ。つまりサイコパスも家族を持てばまともになるみたいな話にはもっていけない。抽象化はできないんだけど,でも具体的な,たった一回の,すごく特殊なシチュエーションで起こる,奇蹟のような出来事っていうのは,やっぱりコンテンツ論のようなものでしか語れないのではないか,っていう気はする。

杉田:作品批評やコンテンツ論の衰退は,単純に売れない,だから本になりにくい,という事情もある気がします。宇野さんですらそう言っていた。

升本:収入にならないと,職業的に継続して書いていくことが難しいですよね。

杉田:ハードルは上がってるでしょうね。僕が最初の本を出した十数年前よりも,ガチの批評の企画は明らかに通りにくくなっている。小さな出版社の2000部の批評の本ですら。もちろん僕も何度も企画を蹴られていますよ。新書的な,時代や社会をサクッと手軽に分析できるものが求められるから。最近は新書すら売れないそうだけど。まあネットがありますからね。評論や批評の書き手も,出版環境の変化に即した生存戦略を練らざるをえないよね。

横山:そうするとその戦略を練るために,杉田さんは現代の批評の状況をどう観測しているんでしょうか。

野村:たぶん杉田さんと近いところでいうと,確実に出てくる名前は藤田直哉さんじゃないですか。

杉田:藤田さんは筒井康隆論や『シン・ゴジラ論』など,コンテンツ批評で一冊の本も書けるけど,時代論や文化論も書ける人です。僕は彼を若手としてすごく意識しています。ただ彼の場合,状況論にとどまらず,「文化」自体を「作品」として論じられるところが強みだと思う。

シン・ゴジラ論

シン・ゴジラ論

 

その意味では『シン・ゴジラ論』は臨界的な批評でしょう。もともと『シン・ゴジラ』という映画自体が,庵野さんらしく引用の束=データベースだから,コンテンツ批評とデータベース批評がメビウス的に捩れて,循環していく。そして批評対象のあり方を真似て彼は批評の言葉を紡いでいくから,引用部分が膨れあがって,『シン・ゴジラ論』自体がデータベース的になる。現在の作品批評が置かれた苦しいところ,臨界点に肉迫している感じがあります。僕はあの本が藤田さんの中ではいちばんいいと思う。彼は現在の言説の環境的変化にすごく適応しようと努力している。

横山:それは明確にそうだと思います。

杉田:今の環境に適応しようとすると,一番いいのはやっぱりキュレーションじゃないか。じっくり時間をかけて一冊の本を書くんじゃなく,色々な人と対談したりインタビューしたりして,それを集めてテーマ論的な本にした方が効率的でしょう。実際藤田さんの本で一番売れて,知名度を高めたのは編著の『地域アート』でしょう。あの本はあえて単著ではなく,色々な人が関わる編著にしたんだよね。その意味をどう考えるか……。
たとえば宇野常寛さんも東さんも,キュレーター的な役割を果たしてきた。環境に適応すれば不可避にそうなる。でも,そうすると段々批評の強度は弱っていかざるをえない。東さんの悩みもそこだったと思う。そのせめぎあいの結果が『観光客の哲学』でしょう。観客の目を意識しすぎずに,自らが観光客という主体になった。「バルトによるバルト」じゃないけど「東浩紀による東浩紀」みたいな不思議な本ですよね。今までの過去の己の思想全部を組み合わせて,それをいわばヘーゲル的に体系化した。けれどもそれが絶対精神として完結しないで,最後には別の方向へとズレていく。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

横山:オープンエンド的な。

杉田:うん。『ゲンロン0』の最後の方は,もう小説だよね。誠実に批評を書いていたら,小説になってしまっていた。まさに創造的批評。
でも近年は,ゼロ年代以降の東浩紀の一人勝ち体制が崩れて,東さん,國分さん,千葉さんの三人態勢になった,とか言われるじゃないですか。批評家の時代から社会学者の時代へ,という言い方が昔されたけど,2020年代は哲学者や思想家の時代になっていくのかな。みんながっちりした哲学書を書いていますよね。ただ,売れるためには,やっぱりメディアやネット上でキャラ立ちが必要で、その辺はもうアイドルとかに近いですよね。哲学者や思想家ですら,今は社会的企業家のようにならざるをえない。
僕にはキュレーションの力も,メディアでキャラ立ちする力もないから,地べたを這いずって虫けらのように地味にやっていきます。

野村:キュレーションというより,憑依する書き方ですからね。

杉田:そうですね。ただ,実存的ロマン主義者というか,今の批評スタイルにも致命的な限界を感じているので,色々と違う書き方を試してみるつもりです。そうじゃないと,だんだん病んでくるから。(了)

2017年7月13日収録
構成:遠野よあけ+座談会出席者