クライテリア

批評誌『クライテリア』によるブログです。

『クライテリアvol.1』

批評誌『クライテリアvol.1』

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<もくじ>

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批評再生塾、第二回課題全レス

さてさて、前回の記事でちょっと触れたとおり、『クライテリア』のメンバーは「ゲンロン佐々木敦批評再生塾」の 第一期生で、これを書いている横山は現在(第三期)再生塾のアシスタントをしています。というわけで今回はこのスペースを借り、批評再生塾第三期の最初の提出文に対する、全レスを行いたいと思います!なんと合計10000字超え!疲れたよ!!

提出文自体はこちら↓

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/subjects/2/

から読めます。

三期生や批評再生塾ウォッチャーの方はもちろん、批評の良し悪しってなにで決まるの??的な疑問を抱いている方にもオススメ。もちろん100%僕の主観であり、したがって主任講師の佐々木敦さんや出題者の大澤聡さんの評価とは全く無関係ですが、一つの指標くらいにはなるかと思います。

結構頑張ったので是非お読みくださいーm(_ _)m

(横山)

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吉原啓介:又吉の情報はそんなに詳しくなくていい笑。彼の情報と『劇場』のあらすじだけで1500字、全体の半分弱が費やされてしまった結果、たとえば藤田貴大の出し方が唐突になり、なぜ数いる劇作家から彼がモデルケースに相応しいのかの根拠付けができていない。他にも「僕は思います」という表現が散見することや、「役者」と「観客」という異なる立場のものが「第三者」という言葉で括られていることなどから、文章が恣意的に見えてしまうので、客観的な情報で納得させること(逆に不要な情報は削ること)を心がけよう。そうすれば「劇作家が劇作家になる物語」というメタ構造を取り出す視点の良さが光るはず。

 

Bambino:けなしているわけではなく、まだ批評という形式に慣れていないようなので、まずはモデルにする批評家を一人さだめ、その人の文章を真似するところから入るといい。ポイントとしては、「ある作品に対する自分の読解を、論理的で客観的に見える文章に変換し、読者にそれを共有させる」こと。このためには「私の体験」を愚直に語ってもダメだし、多用される「思う」という文末もまずい。これらは「論理的で客観的に見え」ないので。というか慣れないうちは、一人称自体を封印することをオススメする。そのうえで、効果的な文章の組み立てや引用の入れ方をこの先の塾で学んでいって欲しい。

 

灰街令:いきなり埋め込み動画や譜面が来るインパクトもあり、題材もキャッチー、切り口自体も面白いので飽きずに読めるものの、やはり長い。そして分析の丁寧さに比して結論が割りと普通。論稿の狙いや対象の妥当性は書かずに粛々と分析&論の展開を行った方がよりよくなったはず。「批評とは作者の意図を当てるゲームではなく、作品を読む新しい視点を作りだすものである。」というエクスキューズや、「私は芸術作品におけるステートメントやメッセージはその内容の真偽ではなくそれが作りだす世界像やそれがいかに語られるかという視点から分析されるべきであると考えている。」という表明も不要。また、「補遺」で楽曲の形式的な分析から離れてしまうので(だから補遺なのだが)、これは禁欲した方がよかったかも。あと「二人セゾン」が「君」と「僕」を軸に語られすぎ、「作品自体」という「メタ視点」が「三」として際立たないことも気になる。とはいえ対象への執着が感じられ、面白い文章だった。

 

イトウモ:『第三帝国』の読解の手つきが非常に丁寧で好感を持って読んだが、現実のテロとの接続がまだ上手くいっていない。導入でちらっと「現実の死とテロリズム」に触れているものの、その後テロの話が3000字の間出てこなくなるので、再登場が唐突に思える。文字数のバランスも『第三帝国』が大半を占めているので、いっそ現実の話を切ってしまうか、文字数を同等にして完全に章分けするor小刻みに『第三帝国』に挟み込む形式にした方がいい。あるいは今のバランスのままでも、テロの話を最後に持ってき、導入も完全に現実の話にすれば、現実の話で『第三帝国』を挟み込む構造になるので大分印象は違ったはず。とはいえ読み自体の丁寧さはなかなか真似できないものなので、今後に期待。

 

脇田敦:小沢健二の復帰が無条件に素晴らしいこととされていて、それが「ステマ」や「ケツ舐め」や今の日本の状況にどう結びついているかの、論理的な関係が書かれていない。「私にはそう感じられた」、「楽しみに待ちたいと思う」という結論部と併せて、極端な話「辛い時代だけど、俺が好きなアーティストが復帰したし、ちょっと明るい気分になれたよ」という主旨になっている。現状ではファンの小沢健二紹介になってしまっているので、小沢健二がどのように「ステマ」や「ケツ舐め」溢れる時代の「不安と戯れ」ているのか(あるいはその助けになるのか)を、小沢健二に興味がない人間も納得できるように提示する努力が欲しい。

 

高橋秀明:三つの観点はそれなりにいいのだが、それらの要素が組み合わさっていない。現状だと三つバラバラ東浩紀の思想を見出していく感じになっているので、「『美しい星』を東浩紀の哲学から読んだ一本の文章」を目指そう。具体的には、「三島由紀夫『美しい星』は、一見「セカイ系」に見える設定だが、それを超える要素を家族によって持たせている(現状二番目の観点)→実際、円盤の飛来地という細部に現実社会が「ダークツーリズム」のように影を落としている(現状最初の観点)→これは『美しい星』の結末にも対応し、一見すると美の現実への敗北に見える結末には、「気まぐれ」=「観光」=「憐れみ」という視点が確かに存在する(現状三番目の観点)」という流れにすれば、論文全体の筋が通っているように見える。あと「私は」という主語や「~たい。」という語尾は論旨を恣意的に見せてしまう効果があるので、なるべく使わない方がいい。

 

hideyukiwada:意気込みが強すぎると忘れがちだが、批評は第一に作品を語るものなので、まずは(たとえ「フィクション」だろうと)自分語りや自己言及を封印しよう。そのうえで、現状では『国境の南、太陽の西』や『コンビニ人間』の設定やストーリーが語られないまま登場人物の関係だけが検討されているので、二作品についての情報をもっと補いたい。また、「観光」という言葉で東浩紀の哲学が暗黙に前提されているが、こちらも『ゲンロン0』からちゃんと引用を引っ張ってきて、出典を示す。内容の問題ではなく、形式がまだ批評のそれになっていないので(最初だから当たり前なのだが)、模倣対象の批評家を決めて、「形から入る」ことがオススメ。

 

高尾:「三島由紀夫の最終定理」は面白いと思ったが、それが結局「パラフィクション」をなぞることに終わってしまっていて、もったいない印象。川端の作品を「パラフィクション」を用いて読むことでその概念自体を更新する「最終定理」を見出す、というシンプルな切り口にした方が良かったように思う。そうすれば、そもそも川端について言われた「最終定理」を筒井で論じる理由が「片腕」繋がりだけで弱い(というか落とし所が先に決まっていて、後から理由を付けたように見えてしまう)、筒井や渡部に触れることで登場する固有名がいたずらに増えてしまっているという難点を解消できる。

 

谷頭和希:引用される固有名が多く、知識量が伺えるが、多すぎてノイズになり、筆者自身の観点がぼやけてしまっている(実際結論自体は「阿部和重は語りが大事」という、作家本人が公言している域を出ない)。導入なく語られ始める論述と併せて、現状ではまだ、書きたいことを書きたいように書いている感じがする。また、「レトリックに左右のイデオロギーが混在している」という主旨の「右」側の根拠が、「難しい」漢字が「多い」という筆者の印象に留まっており、そのことが「右」に結びつくのもイメージの問題にすぎない。結果「左」の根拠として挙げられている、語りの構造分析の産物である渡部直己「接近=回避のディスクール」に比して論理的に弱くなってしまっている。というわけで切り口=引用する固有名を絞り、その分独自の観点&効果的な文章の組み立てを研ぎ澄ますことを考えたい。

 

寺門信:草稿より格段に良くなっていて驚いた。手堅さと論の起伏が両立した、いい文章になっていると思う。そのうえで、やはり当てはめて考察するに留まっている感じは否めないので、もう一歩論を進めたい。現状だと例えば「三」角関係の一角であるトマーシュの愛に触れられておらず、結果アレントの愛の三様態とのバランスが崩れているので、そこを考察してみるとか(トマーシュはアレントが論じていない愛の形なのか)。あるいはアレント自身が全体主義について書いている文書を導入し、全体主義と愛の関係を掘り下げてみるとか。多分講評で「きれいなんだけどもう少しパンチが欲しい」とか言われると思うので、何か+αがあるとよい。あと細かいところでは、「ここでは詳述を避けるが」は「ここ(文章)」で詳述してくれないのかと錯覚するので「個々の説明は後に措くが」とかした方がいいと思った。

 

じょいとも:落語とアメリカの対立というテーマ設定と、それを『大阪レジスタンス』の東京/大阪に重ねる視点は(僕が知らなかったということもあるが)全論考でも屈指だと思った。ただ残念ながら、文章の構造がそれを活かせる形になっていない。冒頭の段落で(まだ議論を進めていない段階で)「日本文化とアメリカ文化の対立を象徴するものと言えよう」と言われても同意できないし、その後に聖書の冒頭のような落語の系譜が来るので、読者を惹き込めない。いきなり現実の話題よりも作品を導入にした方がキャッチーなので、『大阪レジスタンス』の紹介から入り、「一見大阪と東京の話を描いたように見える同作だが、戦後の落語史、そしてそれを象徴するある事件を踏まえると、そこには日本/アメリカというより大きな対立を見出すことができる。」とか書いて冒頭に繋げるとよくなるはず。つまり現実を論じるためにあえて作品論の体を取らせると、話題を膨らしやすくなる。文章の組み立てを学べれば多分化ける。

 

谷川果菜絵:明らかに未完成でコメント出来ることは少ないが(未完成でも提出した気概はいいと思う)、冒頭部を見る限り、いきなり抽象論から入っているのが気になる。その結果、「私の頭の中でこんなこと考えました」という感じになっているので、一度それを具体物=作品に仮託し、客観的に見える形に変換したい。つまり、『LOVE 3D』から入った方がベター。

 

小川和希:草稿の段階より文章がスッキリして大分読みやすくなり、形式的には良くなった。そのうえで内容面の改善点を書けば、『グレート・ギャッツビー』論か『騎士団長殺し』論かをはっきりさせた方がいい。現状だと両者を均等に比較し類似点を見出す文章になっているが、そもそも春樹がフィッツジェラルドからの影響を公言している以上、両者が似ているのは当たり前。つまり「つなぎ=媒介者」としてのこの文章がなくても繋がっているので、どちらかを中心に論じる文章にするか、あるいはもっと以外な組み合わせを持ってくるかをしたい。あと形式面では、理論より作品の方が興味を惹きやすいので、冒頭は作品の話から入り、途中で補助線として中沢新一を導入したほうがベター。

 

北出栞:「セカイ系」が〈ディスプレイの時代〉に対応し、スマホ時代が〈インターフェースの時代〉であるという指摘は「おおっ」となった。だが後半の作品論が、両時代のメディアとどう絡むのかが不明瞭。Ctrl+Fで検索を掛けると覿面にわかるのだが、後半「インターフェース」という語が一切出てこなくなる。作品への愛ゆえに話題が作品分析に集中して周りが見えなくなり、作品の様々な可能性を示すために最後に大量の固有名が召喚されて、結果として当初の見立てが忘れられる、という感じになっている。見立てを活かすために要素を削ることが時として必要で、そのほうが作品が輝くということも得てしてあるので、次はもう少し焦点を絞ったものが読みたいと思った。

 

太田充胤:初回とは思えないほど完成度が高く、面白く読んだ。そのうえで言うことがあるとすれば、序章が長い。導入自体が面白いので苦にはならないのだが、全体の3分の1がそれに当てられ、何について論じる文章なのかが中盤まで明かされないのはやはりまずい。「一」だけで保坂和志平田オリザ谷崎潤一郎東村アキコと固有名が四つも出てくるので、もう少し照準を絞りたい。加えて、「小島には時代的な限界があった」という(それ自体当然の)結論に進んでしまうために、政治的に正しいことを言って終わってしまった感がある。結果「うん、だよね」という読み味になってしまうので、もう一度ひっくり返して小島論に戻すとか、あるいは冒頭で伏線のように挙げた固有名を再召喚するとかすると、より良かったと思われる。

 

Mikipedia:文章がエッセイのそれになっているので、まずは批評っぽい文章を学ぶところから始めよう。批評は主観的な読みを客観的な文章に託す特殊なジャンルなので、「わたし」の経験談はなるべく挟まず、中立的な第三者の立場から作品の構造を分析(今回だと「見る者」「見られる者」の関係を「エモい」と「痛い」で読んでいくこと)し、そこから何か結論へ達することが目標。匿名的な立場から書くため、著者名には敬称を付けないし、世代を代弁してしまうのもまずい。まだ塾の初回なので、これからのカリキュラムで批評の書き方を身に付ける欲しい。

 

谷美里:良くも悪くも谷さんの文章だった笑。文章自体は読みやすく、「均衡」というワードで「断食芸人」を読んでいく手つきも納得がいくものの、内容が薄味で、結論が抽象的な気がする。多分それは「起承転結」の「転」が無いため。現状は全体的にふんふんなるほどと進んでしまうので、あえて論旨の対立物を導入し、それを「この細部は一見相反するように見えるが、視点を変えると実は同じものの表裏であることが分かる」と持っていくような、論旨の起伏が欲しい。あとたしか永久機関のときにも言われていたが、セザンヌが完全に枕にとどまってその後活きていないので、最後もう一回セザンヌに戻るとかした方が良かったかも。

 

☆大山結子☆:ミニマリストを「断捨離」や「もったいない」、「禅」から解釈していくという視点は面白いと思った。しかし第一章の、正しさが「多数派」であることに担保された(そしてそこにあてはまらない者を「異常」とする)ロジックはどうだろう。これに併せて、論の頭から=論証の前からミニマリストが「禅の世界観と合致する」ことが自明になっているが、これは茶の湯との類似性を検証して初めて出てくる議論なはず。他にも「かなり現代美術らしい」というくだりなど、論の端々に主観性が見え隠れしている。例えば後者は、「ミニマリズム」自体が美術用語であることから繋げば回避できるので、そういう技術を磨こう。「現象から~読み取れるのだ」という説得口調も逆に説得する主体を露呈させるので、淡々と「現象」や事実だけを書いていきたい。

 

Pinchon:いまのままだと随想録ないし旅行記になってしまっているので、なにについて論じた文章であるのかを明確にする所から始めよう。そして論じる対象を決めたら、それに関連しない情報はなるべく削る。今回だと最終的に田山花袋聖地巡礼が話の中心になるので、「はじめに」は必要ない。また、随想録にしないため、私の体験に基づいた話を中心に据えない。はじめのうちは作品を一つ選び、作品論から入ることがオススメ。

 

ぽぽんた:ヌーヴォー・ロマンを相手どったことは評価するが、対象作の長さに比して拾ってくる細部が多すぎ、かつそれらを統合するはずの見立ても、「∩」、「ばら色」、「上昇」、「下降」、「断片」、「停止」、「輪」と、バラバラに提示されてしまっている。結果、もとの小説の読みづらさに論稿が引っ張られてしまった感じ。細部に統率があるのだということをクリアに示したいので、この場合だと例えばタイトルの「地下鉄」を基軸にし、他の細部をそれに関連するイメージに結びつけていく。例えば「∩」をトンネルの、「下降」する運動(に伴う相対的な描写対象の「上昇」)を「地下」の、そして「停止」をプラットホームのイメージに結びつけた上で、「すなわち『地下鉄の通路で』と名付けられたこの小篇は、叙述によって構成された「地下鉄」それ自体に他ならない。分割されつつ接続された三つの断章は三両の「車体」であり、この時『地下鉄の通路で』を読むという行為は、走行しあるいは停止するエクリチュール自体の「運動」へと乗り込み、身を委ねる体験と化す。」とかやるとそれっぽくなるはず。掴みどころのない作品には、なるべく一本の読解の筋がほしい。

 

ペンネムRamune:レコメンドとしてはこれでいいのだが、批評文の形式にはなっていない。大雑把な両者の違いは、前者は自分がその作品に触れた体験に立脚して書き、後者は作品とそれが属する文脈に立脚して書くこと。なぜなら前者は(特に批評文の読者にとっては)再現できないものだから。逆説的なことだが、自分が作品に触れた体験を追体験させるためには、その体験を直接書くのではなく、作品について書くことで同じような効果を読者に齎す必要がある。そしてそれができるのが上質の批評文。なので次回からはネタバレを気にせず、自分の体験や「詩の専門家ではないので」のような自己紹介を封印し、作品がどのような形式と内容をしていてその結果なにが起こっているのかを書いて欲しい。

 

runner2718:語り手の内面を作品世界とは独立した第「3」項とみなす論点はいいが、その観点が「ワタナベの頭の中にしか存在しない空間である可能性がある。〔……〕つまり、三番目の世界に属していると言えるのではないだろうか。」と、「可能性がある」「言えるのではないだろうか」という推定として登場し、にもかかわらずそれ以降自明の事実かのように論じられている。そのため、意見と事実がいつの間にかすり替わっている印象がある。全体の見立てが推測にもとづいているのを避けるためには、外から文献を引用してくるのがいい。たとえば村上春樹論は他にたくさんあるし、物語における語り手の問題はナラトロジーという分野でかなり検討されているので、その文献を引っ張ってくるとか。傍証を入れつつの議論の進め方を学んだら、ぐっと良くなるはず。

 

渋革まろん:面白かった。尾形亀之助の語法と人生との結びつきはもう少し説得的にできたのではと思うが、長い文章にありがちな詰め込みすぎもなく、対象も傍証も絞られていて論旨がクリアーなので、苦にならず読める。強いて言えばもうすこし全体に(特に柄谷の風景論の要約と、実質「5」と「6」の二章にまたがっている結論を)切り詰めたいのと、時折挟まれる「ぼく」視点がやや鼻につくこと、長さの割に結論のパンチが弱いことは気になったが、いずれも好き嫌いの範疇か。次回も期待。あと一般的に一重鈎が外で二重鈎が中なので、これはなおした方がいい。

 

伏見瞬:唯一昨年の最初の課題である、批評家は先行世代を批評して登場する、という主旨を継承しているのは良かった。だが、吉田・山下両名を批判したい/木下古栗・平田オリザを並べ論じたいという二つの目的があまり混ざり合っていない印象。その原因はおそらく、最初に吉田と山下の共通の問題点を上手く言語化できていないことで、両方の問題点を古栗がバラバラに乗り越える構図になっている。つまり論点を一本化出来ていないので、平田が古栗と何を共有しているかも見づらくなってしまう。またこれも最初に顕著だが、ブロックの構成が「Aがある。Bがある。ここからCが言える。」という構造になっているため、B(文章全体では平田オリザがそれにあたる)が出て来るのが遅くなる上、Cにたどり着くまでなぜAとBが並べられているのかが不明瞭になってしまう。「AとBにはCという共通点がある。」とまず言ってから個別のA・Bを分析すると、大分論がすっきりするはず。

 

斎藤英:非常にオーソドックスな村田沙耶香論として、危なげなく読めた。しかし逆に言えば、「『消滅世界』がこれまでの村田の延長にある」という論旨が直線的で、起伏に欠ける印象。この原因は過去の作品を追うことに紙幅の多くを費やし、『消滅世界』の特異性の記述に分量が裂けなくなっていることか。結果として立木康介の理論も登場が最終盤になり、意見を代弁してもらうだけで議論が深まっていないのも気になる。基本的な構造はしっかりしているので、現状の結論になっている認識を出発点に、さらに論を展開させたものを読みたいと思った。

 

町田佳路:読者に呼びかけたり、アジテートするような文体が、批評的な客観性と遠いものになってしまっている(特に冒頭と最後)ので、まずは客観的に見える文章を獲得しよう。たとえば現状だと、なぜ「菌」が「1と2を超える3の存在」と言えるのかの根拠が示されないまま、自明のことのように第三者の代表として扱われている。そして平田オリザや「読モ」が文章に召喚とされた理由もよく分からない(その理由が第三者的だという類似だけなら、他の第三者的なものでも良かった?)まま、話が「菌」に戻ってしまい、いい感じのことを言って終わってしまっている。目の付け所は面白かったので、誰が読んでも「菌」が第三者的なものを代表しており、誰が読んでもそれが平田オリザや「読モ」と分かちがたく結びついてる、という全体の流れが欲しいところ。あと書名は『』で括ろう。

 

山下望:面白いのだが、長く、読者を選んでしまう(僕も好みのスタイルではない)。しかも最後の一文が「また別の機会に続きを述べたい。」で「続くのかよ!」となった笑。このタイプの批評文は面白さと雑多さが結びついているので扱いが難しいのだが、それでも流石に思考に浮かんだ固有名が全て投入されているように思えてしまう。結果、「amazonレビューを匿名批評の実装形体と見立てる」という面白い着眼点が隠れてしまうし、前半と後半が、「お客様にお問い合わせされる側」というフレーズによる「フラッシュバック」によってのみ接続されることになり、論理による結合のないamazonレビューの主題は、結論部では見る影もなくなってしまう。アウシュビッツ(以降)と労働という伏流があるのは分かるが、やはり文中に(そこをこそ)可視化したい。この路線の批評もありだと思うが、この路線だけが批評ではないことは今後一考してほしい。あと引用は一重鈎にしよう。

 

遠野よあけ:導入のバランスや、作品の取り合わせ、突然何を言い出したんだという見立てのインパクトは流石二周目。ただ良くも悪くも見立てのインパクトで進むので、騙されている感が残ってしまう(「エピローグ」及び「待つ」ことが「再登場」に必要だという主旨なら、「エピローグ」が存在しない版のイシュメールが別作品で「再演」され得たのはなぜか。そもそも「再登場」と「再演」はどう違うのか、など)。あとメルヴィルが『白鯨』一本に絞っているのに対して、上遠野はさまざまなシリーズが出てくるため、対比がしっくりこない。具体的には『白鯨』が循環構造になっているのに対し、上遠野サーガはそうではないのでは?と、細かい所をつつこうと思えばつつけるものの、全体としては面白く読んだ。けどこの内容なら「郵便空間」には素直に言及した方がよかったかも。

 

ytommy :作品についての記述が丁寧だが、それに文章を費やしすぎ、独自の視点や論理の展開が乏しくなってしまっている。その結果、なんとなく作中人物たちの内面を読み取っていいことを言って終わる、非常に素朴な文章になってしまっている。そして作中人物の内面に焦点を当てた結果、肝心の「東京/大阪/広島」がどのように描かれていて、その描き方によってどのような効果が出ているのか(例えば一箇所あるいは二箇所だけが描かれる場合とどう違うのか)がほとんど展開されないままになってしまっている。比較的出来の良い読書感想文を読んだような読み味なので、ここから批評に持っていきたい。そのためには「内面」を生み出している文章の構造まで読む練習をするべし。

 

ユミソン:情報的にはふんふんなるほどとなるのだが、文章の組み立てが考えられておらず、論旨の山場が見えづらい。対処としてはやはり「三」をキーワードとして有効に活かすこと。例えば現状ぬるっと時代考証から入っている書き出しを改め、「柳宗悦の『民藝とは何か』は、民/官、自由/伝統、個人名/無記名などの二分法による見た目上の素朴さに反し、実は第「三」の立場を追究する複雑なロジックを持っている。」と断言すれば、読み手を惹きこめる。そして「最初にも書いたが」という箇所に時代考証を持ってくれば、論の重複を避けられる。一度書いたあとで、段落を組み替える作業をするといいかも。あと批評文のコツとして、「みなさんにも一読をお勧めしたいのだが」みたいな呼びかけや「タイトルに書いた」のような自己言及はない方がいいし、結論が「私見」なのも避けたい。今まで論じてきたことから必然的にこの結論になるよね、みたいな構えが嘘でもほしい。

 

みなみしま:まずインターネット環境を整えたい。その上で、文章がやや大仰で、堅い印象。例えば問題提起部から、「鋭敏にも炸裂している」という強い修飾や、「色彩表現を見出さなくてはいけない」という使命感すら感じさせる問題提起が出て来るので、読み始めたばかりの読者はテンションに置いてけぼりをくらう。また、分析が精緻なこと自体はよいのだが、分析をしている際は当然論旨の進行は止まるので、結果として全体の流れを追いづらくなっている。そして後半部「美術史を知る者であれば」というエクスキューズで始まったマレーヴィチへの言及を皮切りに固有名が一気に増え、(こちらが大半なことは筆者がよく知っているだろう)美術史を知らぬ者を排除する形になってしまっている。総じて、もう少し大衆に向けて書かれているという体の文章にしたい。一度ですます調で書いてみる実験をすると変わるかも。

『クライテリア』が選ぶ批評入門ブックリスト

 批評再生塾第三期が開講するということで、受講生の先輩(一期生)にあたるクライテリアの編集部が、三期生を始めとする批評初読者にオススメするブックリストを制作いたしました!

drive.google.com

 ざっくりと難易度別に、a=入門(予備知識無しでOK)、b=基礎(やや躓く箇所があるかもだが、抑えておきたいレベル)、c=発展(いきなり通読は厳しいかもしれないが、読むと武器になる)の三段階に分かれています。

 各人が「受講生の役に立ちそう」という基準で選んだものであり、いわゆる「必読書」とは若干異なったラインナップになっております。そのため、網羅性を目指したもので無いことは注記しておきます。オーソドックスな必読リストである『ゲンロン1・2・4』収録の「年表現代日本の批評」(むろん座談会自体も必読)や、批評再生塾第一期の記録本『再起動する批評』に収録された「現代批評の系譜チャート」などと併せてご利用することを強く推奨いたします。

 なお、各選書には推薦者のコメントが付記されていますが(匿名。コアなクライテリアファンはコメントから推薦者を予想してください笑)、そこには「併せ読むといい一冊以上を盛り込む」という縛りを設けています。つまり選書自体と合わせて七十冊近くの書名が挙がっており、網羅的でないと言いつつ中々ボリュームのあるブックリストになっています。コメントの方に「必読書」が挙がっているケースも少なからずあるので、ぜひこちらもご活用下さい。

 

観光と政治の狭間で

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f:id:criteria:20170530001657j:plain<上:チッタゴン丘陵地帯の丘からの眺め 下:夜のカプタイ人造湖 撮影:Jumma Titu>

 
 

 バングラデシュの南東に位置するチッタゴン丘陵地帯。ここは国内でも有数の観光地である。他よりも少し高い丘から見下ろす眺めは雄大で、人々の心を大きくし、小さな悩み事をかき消してくれる。また、国内最大の人造湖であるカプタイ湖には旅客船が周回しており、湖の上を揺蕩いながら、自身の内面を見つめる時間をくれる。埃と喧騒にまみれたダッカでのストレスフルな生活を癒す絶好のスポットだ。実際に多くのバングラデシュ人がここを観光目的で訪れている。私もよくダッカの知人に「チッタゴン丘陵地帯には絶対に行ったほうがいい。自然がめちゃくちゃ綺麗なんだよ。ほら見てくれよこの景色」とスマホの写真を自慢されていた。

 一見すると坂だらけで人の住めるような環境ではないが、未開の地というわけでもない。ここにはチャクマと呼ばれる先住民が多く暮らしている。人口の八割弱がイスラーム教徒のバングラデシュでは珍しく、彼らの大半は仏教徒あるいは無宗教であり、平野部のベンガル人とは異なる独自の文化を形成している。バングラデシュというと、イスラーム教のイメージの強い国であるが、実はチャクマのような先住民があちこちに存在していて、意外と多様性に富んだ国なのである。

 今回はチャクマの新年祭に招待されたので、その報告である。しかし、彼らの文化を事細かに紹介するようなことはしない。私がここで書きたいことは、この地に行くことであぶり出される、この土地の目には見えない何かについてである。

 

 結論から言うと、チッタゴン丘陵地帯は観光地であるにもかかわらず、観光地的ではない要素で満たされている場所なのだ。大自然を前に思いっきり羽を伸ばそうと思っても、後ろめたくなるような、判然としない気持ちにさせられる要素がここにはある。その要素とは何か。それを説明するためには、まず簡単にこの土地の事情を知る必要がある。

 

 チッタゴン丘陵地帯は治安が悪い。民族的な対立による襲撃事件やレイプ事件が今も起き続けている。そのため、観光の際には治安維持を担当する軍の同行が必要になる。とはいえ、観光客が被害者になるケースはほぼない。被害者はこの土地に住む少数民側であることがほとんどで、加害者はこの土地に後からやってきたベンガル人入植者であることが多い。観光客は、両者のいがみ合いの隙間をすり抜けて、この土地の大自然を満喫する。それはあまり健全とはいえない。自然もあり、観光施設も整っているが、肝心の観光客が安全に入れる場所ではないのだ。

    民族対立の主たる原因は土地である。一七世紀から始まったイギリス植民地時代が崩壊して以来、一九四七年のインド・パキスタン分離独立、一九七一年のバングラデシュ独立を経て今に至るまで、各時代の中央政府はこの地域の少数民の土地を半ば強制的に奪ってきた。逆に言えば、イギリス植民地時代は、その自治権が認められており、チャクマらにとってはまだましな時代だったと言える。もっとも甚大な被害は冒頭で紹介したカプタイ人造湖の建設である。これにより、チッタゴン丘陵地帯の平坦な土地の約四割が沈み、約一〇万人がその土地を離れざるを得なくなった。優雅なクルージング体験ができるこの湖の底には大きな村が沈んでいる。そんな場所なのだ。

 もう一つ特筆すべき出来事は入植政策である。政府の入植政策による人口移動は露骨であり、かつてはチッタゴンの先住民と入植者の人口比率は八対二程度だったが、今では五対五にまでなっている。チッタゴン丘陵地帯の人口密度は平野部より低いが、実際に人の住める土地は少ない。当然、彼らは住む場所を巡って対立することになる。チャクマの言い分は「もともと住んでいたんだから、我々の土地だ」であり、入植者の言い分は「政府から公式に受け取った土地なんだから、我々の土地だ」である。どちらも妥当な意見である。さらに問題なのは入植者は全員貧民であるということだ。彼らには戻る場所がない。全てを捨て、政府の申し出を信じて丘陵地帯にやってきている。

    互いに譲れない理由がある。彼らは互いに認め合うことをせず、加害者である政府相手ではなく、被害者同士で争っている。

 

 以上が、治安の悪い理由である。そのために、ここを観光する際には軍部の人間が同行することになっている。さらに外国人の場合は、事前に軍の許可を得なければならない。滞在日時や宿泊先、訪問場所などを予め伝え、許可証を受け取る。そして、入域する際には検問所を通り、許可証を見せ、本人確認とサインをする。理由はわからないが、許可が下りないこともある。観光地として、開いているのか、閉じているのか、はっきりしないのがこの土地の特徴だ。

 では、説明はこのくらいにして、以下に私の体験したことを、書き連ねていきたい。おそらくそれが、最もこの土地の特徴を表すのに適した方法だから。

 

 二〇一七年三月、例にもれず、私も許可証を取得した。この土地を訪れるのは今回で三度目だが、この許可をもらうという行為が毎回釈然としない。治安が悪いとはいえ、毎日争いが起きているわけではないし、実際、ダッカの方が危険は多い。特に昨今、ISISの影響によりダッカでは排他的なテロ行為が増えてきている。それに比べれば、チッタゴン丘陵地帯は平和な方だ。

 四月に入り、ようやく現地入り。検問所で、書類にサイン。ここで、ガイド役として一人チャクマの知人をつけていると伝えると、それで良いということになった。正直、軍の同行についてはどういう基準があるのかよくわからない。しかし、これは嬉しい誤算だった。とりあえず、わずらわしさがなくなったとホッと胸をなでおろした。これで気兼ねなくチャクマと話せるし、お酒も飲める。新年祭のイベントも自由に見て回れる。もう、この土地を満喫することだけを考えていた。

 

 最初に見たものは女性陣による「おはじき対決」。ハマグリくらいの大きさのおはじきを手で弾いて相手のおはじきにぶつけていくゲーム。

f:id:criteria:20170530010457j:plain<これより以下の写真は全てクライテリア編集員佐伯が撮影。キャプションは本文を持って代えさせていただきます> 

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 このゲーム、ルールは厳しく一回でも的を外すとターンエンドとなる。意外と距離もあるし、何より地面が平らでないため難易度はかなり高い。が、選手たちはバシバシ的を射抜いていく。絶対に練習している。というより新年とか関係なく日常的にやっているのかもしれない。見た目は子どもの遊びだが、日本でいうゲートボールのようなものなのだろう。

 

 白熱の試合を見ていると、私のガイドの方に電話が入った。それは軍部からのものだった。「今、何をしているのか」「ミーティングはしていないか」「明日はどこへ行くのか」「直接会って話せるか」などなど。事細かに動向を聞かれていた。ガイドは「新年祭をただ楽しんでいるだけだ」と繰り返し説明したが、その説明だけでは満足しなかったのか、直接会って話すことになった。

 私が宿泊しているゲストハウスで落ち合うことになったので、私とガイドはイベント会場をいったん後にした。ゲストハウスに戻ると治安当局の役人が一人すでに門の前に立っていた。私たちは互いに自己紹介をし、奥のロビーへと向かった。外国人である私を守るという使命感で来ているのか、政治的な企みを暴こうという正義感で来ているのかはわからないが、とにかく、私とガイドが何者であるのかをはっきりさせたがっている様子だった。「君は普段日本では何をしているのか」「君たちはどういう経緯で知り合ったのか」「ガイドさん、君はどんな仕事をしているのか」などなど。ところが、ほとんどの質問が人となりを確かめるためのものであった中で、一つだけ奇妙な質問が発せられた。それは「ミーティングはしないのか」である。

 実は許可証には「公式な会議に出席することを控えること、また、チッタゴン丘陵地帯に関する問題への言及を控えること」という文言が記載されている。ここではこの土地に関する政治的な発言や行動は明確に控えるよう言い渡されているのである。しかし、まさかこんなにも直接的に「ミーティングはしないのか」と聞かれると思わなかった。そんなことを聞かれても、ミーティングをしようとしまいと答えは「ノー」に決まっている。あらかじめ釘を刺されていることを堂々と「やります」と答える人なんていないのだから。その質問の効果のほどはよくわからない。しかし、改めて口にされると、文書で否定されるよりも胸に刺さる。私はその質問をされた瞬間、急に自由がなくなった心地がしてしまった。

 

 気を取り直して夕方。民族舞踊が観られるというので、出発。チャクマだけでなく、マルマやトリプラといった他の少数民も独自の衣装を着て、それぞれの言語で歌と踊りを披露していた。

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 この写真はチャクマの踊り。新年を意味する「ビジュ」という曲に合わせて踊っている。男女問わず、この土地の踊りは動きが柔らかく滑らかな振り付けが多いのが特徴だ。伝統的なものなので、チャクマなら誰しもが踊れるし歌える。

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 観覧者にはお姉さんたちを真似する子どももちらほら。彼女は前に出過ぎてしまったため、親に引っ張られている。きっといつかあの舞台に立つ日がくるのだろう。

 

 日にちは変わってレスリング。「相撲」という単語はわりと知られており、ガイドも「おい、今日はチャクマ・スモウがあるぞ」なんて言っていた。それは見応えがありそうだと思いながら会場へ向かった。ちょうど昨年のチャンピオンと挑戦者の試合が行われる時間帯で客席は超満員。

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 左が昨年のチャンピオン。体格はチャンピオンの方が小さく見えたが、映える筋肉の質が明らかに異なる。もう始まる前からチャンピオンの勝ち確のように思えた。そして実際にチャンピオンの圧勝だった。

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 試合はあっさりしていたが、勝つことに意味がある。チャンピオン渾身の勝利の舞。選手も観客も大興奮。興奮状態のまま、特にファンサービスとかは無く、バイクにまたがり颯爽と帰宅。さらばチャンピオンという感じだった。

 

 チャンピオンはすぐに帰ってしまったが、会場では興奮した観客が各々で相撲を始めていた。素晴らしい試合を観た後は身体を動かさずにはいられないのだ。しかし、私たちは、それよりも酒だということで、帰宅を選択。とその時、またしてもガイドの電話が鳴る。今度は軍からではなく警察からだった。今いる場所を伝えると、そちらに向かうから待っていろとのことだった。しばらくして二人組のベンガル人がやってきた。先日の軍と全く同じやり取りが行われた。どうやら軍と警察ではガイドの電話番号以外は情報を共有していないらしかった。人柄なのだろうが、軍の人よりも穏やかで、「エンジョイ!」などと言って私に気を使ってくれてもいた。

  この後は基本的に電話連絡はなかったが、行く先々で軍や警察に遭遇した。まさか二四時間見張っているわけでもあるまいし、私は偶然会ってしまったのだろうと思ったが、ガイドの方は監視されていると感じていたようだ。

 

  このように、チッタゴン丘陵地帯とは、こちら側の意図とは無関係に政治的な要素が向こうからやってくる土地なのである。にもかかわらず、政府と軍はここに宿泊施設を建設し、エコロジカルなイメージ戦略を用いて観光地化を進めたがっている。政治的な行動を抑えようと、「ややこしいことに触れるな」というお達しを表明しつつ、しかし観光地化を進める。このような強引な手法にはやはり無理がある。この歪みに触れた観光客は気づくだろう。ここは普通じゃないと。  

 

 最後に私の尊敬するカメラマンの勇姿をみなさんに送る。

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彼女の思い出を最高の形で残すため、彼らは沈む。

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佐伯 良介

ゲッコーパレード『ハムレット』評

先月、ゲッコーパレード『ハムレット』の再演を見てきました。この芝居については『クライテリア1』で山崎健太が既に論じており、屋上屋を架すことになるので書かないつもりでいたのですが(公演は素晴らしいものでした)、ブログ記事として少し書き散らしてみます(すでに観劇から一月以上が経過しているので、記憶違いがあったらごめんなさい)。ちなみに以下では、『ハムレット』という表記は基本的にゲッコーパレード版を指し、シェイクスピアの戯曲は「原作」また「原『ハムレット』」と表記することにします。『クライテリア1』に所収された山崎健太「存在と非在のあいだで」と併せてお読みいただけると幸いです。


これは五感に訴える演劇である。『戯曲の棲む家』と題されたシリーズの一環として民家(1970年代築)のリビングを舞台に、もう一室を客席として上演される『ハムレット』。座布団からは民家の床の感触が直に伝わり、登場人物の食べる納豆の香りが(時にショートケーキのそれと混ざりつつ)漂い、上演中にはなぜか茶菓子が振る舞われる。視覚と聴覚は演劇に付き物なれど、触覚嗅覚味覚を駆使させる芝居は稀だろう。こればかりは是非ご体験をというほかない。

それゆえ体験を再現できない本稿に語りうるのは、主として聴覚か視覚ということになろう。こちらの演出も図抜けている。俳優たちの声色づかいやBGMの宇多田ヒカルもさることながら、素晴らしいと感じたのは照明である。なので視覚に話を絞って進めれば、この舞台には二種類の照明がある。舞台に備え付けられた、ということはごく普通の民家の電気と、通常の(が意味するところもなし崩しだが)舞台照明である。そのどちらもが落とされた真っ暗闇から始まり、小道具として卓上ライトやLEDのミラーボールが印象深く用いられるこの劇の主役は照明だと論を進めたくもなるのだが、ここでは上二種類の照明に話題を限ろう。言うまでもなく、後者がついている時は劇が演劇めき、前者の場合は家庭めく。この組み合わせは演劇批評家の山崎健太が本作に見る、「存在」(=「現実」)と「非在」(=「虚構」)の二重化に通じるものだ。

観客に〔ハムレットを演じる〕「男と家族」が見えるのは、〔……〕舞台となっているのが民家であったからに他ならない。「男と家族」というフィクションのレイヤーは、旧加藤家住宅という現実によって支えられている。だからこそ、「よりたしからしい」フィクションとして観客に知覚されるのだ。(「存在と非在の間で――ゲッコーパレード『ハムレット』評」

本作はハムレットの台詞を口ずさむ男が真っ暗な台所に二階から降りてくることから始まる。その後、男によって『ハムレット』が演じられる、のか、狂った男の妄想が開陳されているかの区別はしがたい(なにせ原作の台本の順序はバラバラに再構築されている)。それについては山崎が論じているので措くとして、ここでは要は、「男と家族」=「現実」(寄りのフィクション)というレイヤーと「ハムレット」=「虚構」(寄りのフィクション)という二つのフィクションのレイヤーが存在することだけ分かってくれればいい。その複数の層(さらにそこに現実の現実が加わるが、その層には後ほど触れる)の貫通がこの『ハムレット』の醍醐味である、というのも山崎が指摘するところだ。

そのうえで本稿が注目したいのは、そのフィクションの二層の切り替えに、電気と舞台照明は一役買っている、ということである。スポットライトが照らす間、背景の家庭は暗闇に沈む。しかし一方で、普通の電気が点いているときでも、観客はそれを現実の現実としては見ないということは強調しておこう。それが「よりたしからしい」ものだとしても、「男と家族」の遣り取りもまた「フィクション」である。それは、電気が点いているときでも語られる台詞が原『ハムレット』のものだから、だけではない。たとえ家庭に似つかわしい、例えば結婚を巡る親子の遣り取りがなされていたとしても、観る者はそれを家族劇として見るだろう。

つまりどちらの照明が点いているときでも、「劇であること」に違いはない。照明の操作によって変わるのは、視覚の「劇的さ」具合であり、一貫して「劇的」な原作の台詞との開きである。それは劇が「ベタ」に見えるか「ネタ」に見えるかのモードとも言い換えることができよう。では、なぜそんな切り替えをするのかと言えば、原『ハムレット』のテーマが、ハムレットが狂気を演じているのか=「ネタ」なのか、本当に狂ってしまったのか=「ベタ」なのかという点にあるからだ。

デンマークの王子ハムレットは、父王の亡霊に、自分を暗殺した叔父クローディアスに復讐するように誓わされる。そしてハムレットはそのために、狂気を演じるという手段を取る。だが劇が進むに連れエスカレートしていくその振る舞いは、登場人物にも観客にも(あるいはハムレット自身にも?)演技なのか本気なのかが定かではなくなってくる。この主題と劇中劇『ゴンザーゴー殺し』の存在により、『ハムレット』は演じることをめぐる劇だとされている。

だから照明の切り替えによって「ベタ」モードと「ネタ」モードが切り替わるゲッコーパレードの『ハムレット』は、原『ハムレット』の正当な変奏だといえる。しかし、ここで切り替わっているのはあくまで観客のモードだけであることに留意しよう。というのも繰り返せば、登場人物たちが語るのは一貫して「劇的=ベタ」な『ハムレット』の台詞だからだ。むしろ観客が「ネタ」モードの中「劇的」な台詞を喋り続けることで、「男」は本当に狂っているのではないかという疑念は強くなる。照明は作品世界の外にある。

そして男の狂気は、原『ハムレット』とはいささか異なった結末へと行き着く。ゲッコーパレード版『ハムレット』のラストには、原作の冒頭近く、ハムレットが初登場する場面となる、クローディアスとハムレットと母ガートルードの三者による(食卓を挟んだ)会話が来る。そしてその場面は、ハムレットがクローディアスに言いくるめられて終わるのだ。つまりこの『ハムレット』では、王殺しは失敗する。演じることを巡る独白を挟んだのち、全てが「男」の狂気の産物だったかのように女二人が踊る幻想的な(というかほとんど奇妙な)幕切れを、色とりどりの舞台照明が極彩色に照らす。

これは――その過程が佯狂であったか否かは兎も角――王殺しを果たし極めて整然と死ぬ原作のハムレットとは対照的である。彼は自らの人生を正しく「物語」にするよう友人ホレーシオに託し、「あとは、沈黙」という言葉でその人生=物語を締める。ハムレットは父王の遺言という筋書きを完遂・完成することに成功したが、「男」はハムレットを演じることに失敗し、「虚構」と「現実」の境界はなし崩しにされる。「ベタ」の徹底化によって、「ベタ」と「ネタ」の対立も消失してしまう。

ゲッコーパレードの『ハムレット』では、「男」はハムレットを演じることに失敗し、「虚構」と「現実」の境界はなし崩しにされる。しかしほとんど揚げ足取りのように裏を返せば、男は「ハムレットを演じることに失敗する」のを演じることに成功しているとも言える。このことは先に触れた、それが「よりたしからしい」ものだとしても「男」もまた「フィクション」である、ということと同義である。つまり、照明が「ネタ」と「ベタ」のモードを切り替え、ラストで「虚構」対「現実」の境界を切り崩してしまうとしても、「フィクション」対現実の現実というより大きな対立は温存されるのではないか。

ここには、「虚構」と「現実」という枠組み自体を問題化する「フィクション」が必然的に陥るアポリアがあるように思える。これは突き詰めれば、記号を以って記号を解体することの困難だろう。「この記号は記号を解体する」、あるいはより純化して「これは記号ではない」というメッセージを持つ記号は、それが十全に機能するほどその意味内容を裏切ってしまう。ではこの隘路を越え、「フィクション」と名付けられた壮大な記号が自身を解体し、現実の現実と融け合うためにはどうすればいいか。

さて、お忘れの向きもあろうが、改めて、これは五感に訴える演劇である。そして視覚と聴覚は演劇に付き物なれど、触覚嗅覚味覚を駆使させる芝居は稀である。ではなぜ視覚と聴覚以外が演劇に対して外様だったのかと言えば、人類がまだ、触覚嗅覚味覚を記号として用いるその方途を、確立できていないからだ。逆に言えばここにこそ、演劇という記号が、記号を解体するための鍵がある。

無論、聴覚と視覚についても、ゲッコーパレードの『ハムレット』の演出は図抜けている。ここまで見てきた家庭用の電気はもとより、誰もが知る(知らないにしても筋と全く関係ない歌詞が飛び込んでくる)宇多田ヒカルの歌もまた、フィクショナルな意味よりも現実的な存在感を色濃く感じさせることで、記号を現実で汚染する。視覚と聴覚は共謀し、『ハムレット』という「フィクション」が透明にリプレゼンテーションされることを拒む。

だがしかし、それだけでは不十分なのだ。それだけでは、観る者はそこに「男と家族」という別種の「フィクション」を読み込んでしまう。結果として、融け合うのは「虚構」(寄りのフィクション)と「現実」(寄りのフィクション)という二層に留まり、「フィクション」と現実の境界をなし崩しにするには至らない。それほどまでに我々は、視覚と聴覚を「フィクション」に従属させることに慣れてしまっている。極言すれば、劇中に視るものは全て舞台装置となり、聴くものは全てBGMとなる。

その点、演劇に対して外様だった触覚嗅覚味覚は事情が異なる。なにせ座布団越しの古びた床の感触は古びた床以外を意味しないし、納豆とショートケーキが混ざりあった匂いは他の指示対象を持たないし、茶菓子に振る舞われるカントリーマアムはカントリーマアム以外の味を示さない。視覚=照明と聴覚=BGMの二感と異なり、「フィクション」/現実という二層構造を持たないこれらの感官は、あらかじめ、原理的に、両者の境界を骨抜きにしてしまうのだ。ゲッコーパレードの『ハムレット』は、これらの三感を演劇の中に導入することによって、記号を、記号足り得ない現実で以って、ハッキングすることに成功する。

しかしそもそもなぜ、ここまでして「虚構」/「現実」/現実の現実という三層構造は貫通されなくてはならないのか。二つの理由が考えられる。一つ。演劇というジャンル自体が、純粋な記号ではない、人間の(だけでは最近なくなっているようだが)身体を記号として用いる特異な領野であること。つまりその領野は定義上、「フィクション」と現実が融け合った上に成り立つジャンルであり、両者の関係の追究は、ジャンル自体が原理的に持つ欲望である。その探究の結果として、例えば劇中劇という装置が生まれ、「虚構」と「現実」というフィクション内での対立も出来する。言うまでもなく、この探究の最大の功労者がシェイクスピアである。ゲッコーパレードの『ハムレット』は、原『ハムレット』の正当な変奏だといえる。

もう一つ。逆説的なことだが、「フィクション」の力が、弱まっていること。人々は最早ハムレットのように、自分の運命=筋書きを信じることはできないし、劇中劇を観る登場人物を観る際に、さらに外側から我々自身を観る超越者の視線を感じることはできない。それらを「ベタ」に信じることは、狂気の一語へと回収されるだろう。だから我々は「フィクション」があった場所に、現実を据えなくてはならない。その意味でゲッコーパレードの『ハムレット』は、地点の『ロミオとジュリエット』と明確に同時代的な現象である。両者ではともにシェイクスピアの筋書きがコラージュされ、超越性が身体性に取って代わられる。異なるのは後者が過度な運動によって演者の身体性を現前させるのに対し、前者は触覚嗅覚味覚によって観客の身体に訴えることだ。

つまりゲッコーパレードの『ハムレット』を見る限り、今の演劇は「フィクション」から現実へ、物語から体験へとその重心を移しつつある(繰り返すがこの二層構造自体は、演劇が本来的に持っているものである)。したがって、当初の予定の二倍以上に膨れ上がったこの文章の主張は、以下の一言で十分だったのかもしれない――こればかりは是非ご体験をというほかない。



ゲッコーパレードの次回公演は6月9日~のようです!(『ハムレット』ではないですが)

(横山)

編集会議とメンバー紹介

クライテリア編集部は現在、2017年11月発売予定の『クライテリア2』に向けて、月1~2回編集会議+勉強会をしています。その会議を、本日も行いました。

今日の議題は『クライテリア2』の対談企画や、今後の勉強会等について。まだ確定ではないですが、面白くなりそうな対談企画が進行中です。

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ブログ始めてから現在まで、自分たちの紹介を全くしていなかったことに気付いたので、いまさらですがクライテリア編集部のメンバーを紹介します。

上の写真の左から、クライテリア編集長の遠野よあけ(@yoakero)、批評再生塾第2期オブザーバーの横山宏介(@gexive_boyz)、バングラデシュに度々渡航する佐伯良介(@ryoochin)。

下の写真で『DEATH NOTE』のLみたいな椅子の座り方をしているのが、最年少メンバーの野村崇明(@mihailnomrish)です。

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野村くんは大体いつも遅刻してきますが、今日はそんなに遅くならなかったですね。

 

クライテリア編集部のメンバーはあと、批評再生塾第1期総代の吉田雅史(@nejel_mongrel)、ゲンロン勤務で『ゲンロン』編集スタッフの富久田朋子(@puk_mok)、この記事を書いている升本雄大(@masumoto_)の7名で構成されています(2017/5/13現在)。全員、批評再生塾第一期に通っていました。

下記写真は別日の会議の様子。左から遠野、吉田、横山です。

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ところで、今日の会議室の利用料は、2時間で2260円+ワンドリンク(最低でも1人610円)でした。

新宿の貸会議室代の相場はこんなものかと思いますが、頻繁に利用するにはちょっと高いかもなーとも感じました。

山手線圏内で、安くて使い勝手のいい会議室をご存知の方がいたら、ぜひともご教示ください。

 

文責・写真撮影:升本

【完売】第二十四回文学フリマ東京【御礼】

 第二十四回文学フリマ東京にご来場いただいた皆様、ありがとうございました。

 

『クライテリア』は年刊なので新刊もブースもなかったのですが、第一号をヱクリヲさんのブースにおかせていただきました。持ち込み分は途中で完売となり、ブースでお求めいただいたけれど買えなかったという話もチラホラ聞いております。お買い求めくださった皆様、ほんとうにありがとうございます。お買い求めいただけなかった皆様も、『クライテリア』はtwitterのDMで通販を受け付けておりますので、お気軽にお問い合わせください。→twitter:@CriCriteria

 

 今回の文フリで販売した『クライテリア』vol.1、実は増刷分で、内容の変更はないのですが、画像の解像度が上がっていたりいくつかの誤字や体裁の不備が直っていたりします。奥付に「第一版二刷」と書かれているはずなので、ぜひチェックしてみてください。今後通販などでご購入される方にも、恐らく第二刷をお届けすることになると思います(もし第一刷が送られてきたら「レアアイテムだ!」と喜んでいただければ幸いです、、、)。

 

 

 現在クライテリア編集部は、11月発行を目標に『クライテリア』vol.2を制作しております。詳しいことはまだ書けませんが、日本の批評に新しい潮流・理論・コンテンツを導入する、刺激的な一冊になる予定です。大いに期待していてください。なにより私自身が、一人の批評好きとして形になるのを楽しみにしています。

 

(野村)