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クライテリア

批評誌『クライテリア』によるブログです。

『クライテリアvol.1』

批評誌『クライテリアvol.1』

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<もくじ>

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ゲッコーパレード『ハムレット』評

先月、ゲッコーパレード『ハムレット』の再演を見てきました。この芝居については『クライテリア1』で山崎健太が既に論じており、屋上屋を架すことになるので書かないつもりでいたのですが(公演は素晴らしいものでした)、ブログ記事として少し書き散らしてみます(すでに観劇から一月以上が経過しているので、記憶違いがあったらごめんなさい)。ちなみに以下では、『ハムレット』という表記は基本的にゲッコーパレード版を指し、シェイクスピアの戯曲は「原作」また「原『ハムレット』」と表記することにします。『クライテリア1』に所収された山崎健太「存在と非在のあいだで」と併せてお読みいただけると幸いです。


これは五感に訴える演劇である。『戯曲の棲む家』と題されたシリーズの一環として民家(1970年代築)のリビングを舞台に、もう一室を客席として上演される『ハムレット』。座布団からは民家の床の感触が直に伝わり、登場人物の食べる納豆の香りが(時にショートケーキのそれと混ざりつつ)漂い、上演中にはなぜか茶菓子が振る舞われる。視覚と聴覚は演劇に付き物なれど、触覚嗅覚味覚を駆使させる芝居は稀だろう。こればかりは是非ご体験をというほかない。

それゆえ体験を再現できない本稿に語りうるのは、主として聴覚か視覚ということになろう。こちらの演出も図抜けている。俳優たちの声色づかいやBGMの宇多田ヒカルもさることながら、素晴らしいと感じたのは照明である。なので視覚に話を絞って進めれば、この舞台には二種類の照明がある。舞台に備え付けられた、ということはごく普通の民家の電気と、通常の(が意味するところもなし崩しだが)舞台照明である。そのどちらもが落とされた真っ暗闇から始まり、小道具として卓上ライトやLEDのミラーボールが印象深く用いられるこの劇の主役は照明だと論を進めたくもなるのだが、ここでは上二種類の照明に話題を限ろう。言うまでもなく、後者がついている時は劇が演劇めき、前者の場合は家庭めく。この組み合わせは演劇批評家の山崎健太が本作に見る、「存在」(=「現実」)と「非在」(=「虚構」)の二重化に通じるものだ。

観客に〔ハムレットを演じる〕「男と家族」が見えるのは、〔……〕舞台となっているのが民家であったからに他ならない。「男と家族」というフィクションのレイヤーは、旧加藤家住宅という現実によって支えられている。だからこそ、「よりたしからしい」フィクションとして観客に知覚されるのだ。(「存在と非在の間で――ゲッコーパレード『ハムレット』評」

本作はハムレットの台詞を口ずさむ男が真っ暗な台所に二階から降りてくることから始まる。その後、男によって『ハムレット』が演じられる、のか、狂った男の妄想が開陳されているかの区別はしがたい(なにせ原作の台本の順序はバラバラに再構築されている)。それについては山崎が論じているので措くとして、ここでは要は、「男と家族」=「現実」(寄りのフィクション)というレイヤーと「ハムレット」=「虚構」(寄りのフィクション)という二つのフィクションのレイヤーが存在することだけ分かってくれればいい。その複数の層(さらにそこに現実の現実が加わるが、その層には後ほど触れる)の貫通がこの『ハムレット』の醍醐味である、というのも山崎が指摘するところだ。

そのうえで本稿が注目したいのは、そのフィクションの二層の切り替えに、電気と舞台照明は一役買っている、ということである。スポットライトが照らす間、背景の家庭は暗闇に沈む。しかし一方で、普通の電気が点いているときでも、観客はそれを現実の現実としては見ないということは強調しておこう。それが「よりたしからしい」ものだとしても、「男と家族」の遣り取りもまた「フィクション」である。それは、電気が点いているときでも語られる台詞が原『ハムレット』のものだから、だけではない。たとえ家庭に似つかわしい、例えば結婚を巡る親子の遣り取りがなされていたとしても、観る者はそれを家族劇として見るだろう。

つまりどちらの照明が点いているときでも、「劇であること」に違いはない。照明の操作によって変わるのは、視覚の「劇的さ」具合であり、一貫して「劇的」な原作の台詞との開きである。それは劇が「ベタ」に見えるか「ネタ」に見えるかのモードとも言い換えることができよう。では、なぜそんな切り替えをするのかと言えば、原『ハムレット』のテーマが、ハムレットが狂気を演じているのか=「ネタ」なのか、本当に狂ってしまったのか=「ベタ」なのかという点にあるからだ。

デンマークの王子ハムレットは、父王の亡霊に、自分を暗殺した叔父クローディアスに復讐するように誓わされる。そしてハムレットはそのために、狂気を演じるという手段を取る。だが劇が進むに連れエスカレートしていくその振る舞いは、登場人物にも観客にも(あるいはハムレット自身にも?)演技なのか本気なのかが定かではなくなってくる。この主題と劇中劇『ゴンザーゴー殺し』の存在により、『ハムレット』は演じることをめぐる劇だとされている。

だから照明の切り替えによって「ベタ」モードと「ネタ」モードが切り替わるゲッコーパレードの『ハムレット』は、原『ハムレット』の正当な変奏だといえる。しかし、ここで切り替わっているのはあくまで観客のモードだけであることに留意しよう。というのも繰り返せば、登場人物たちが語るのは一貫して「劇的=ベタ」な『ハムレット』の台詞だからだ。むしろ観客が「ネタ」モードの中「劇的」な台詞を喋り続けることで、「男」は本当に狂っているのではないかという疑念は強くなる。照明は作品世界の外にある。

そして男の狂気は、原『ハムレット』とはいささか異なった結末へと行き着く。ゲッコーパレード版『ハムレット』のラストには、原作の冒頭近く、ハムレットが初登場する場面となる、クローディアスとハムレットと母ガートルードの三者による(食卓を挟んだ)会話が来る。そしてその場面は、ハムレットがクローディアスに言いくるめられて終わるのだ。つまりこの『ハムレット』では、王殺しは失敗する。演じることを巡る独白を挟んだのち、全てが「男」の狂気の産物だったかのように女二人が踊る幻想的な(というかほとんど奇妙な)幕切れを、色とりどりの舞台照明が極彩色に照らす。

これは――その過程が佯狂であったか否かは兎も角――王殺しを果たし極めて整然と死ぬ原作のハムレットとは対照的である。彼は自らの人生を正しく「物語」にするよう友人ホレーシオに託し、「あとは、沈黙」という言葉でその人生=物語を締める。ハムレットは父王の遺言という筋書きを完遂・完成することに成功したが、「男」はハムレットを演じることに失敗し、「虚構」と「現実」の境界はなし崩しにされる。「ベタ」の徹底化によって、「ベタ」と「ネタ」の対立も消失してしまう。

ゲッコーパレードの『ハムレット』では、「男」はハムレットを演じることに失敗し、「虚構」と「現実」の境界はなし崩しにされる。しかしほとんど揚げ足取りのように裏を返せば、男は「ハムレットを演じることに失敗する」のを演じることに成功しているとも言える。このことは先に触れた、それが「よりたしからしい」ものだとしても「男」もまた「フィクション」である、ということと同義である。つまり、照明が「ネタ」と「ベタ」のモードを切り替え、ラストで「虚構」対「現実」の境界を切り崩してしまうとしても、「フィクション」対現実の現実というより大きな対立は温存されるのではないか。

ここには、「虚構」と「現実」という枠組み自体を問題化する「フィクション」が必然的に陥るアポリアがあるように思える。これは突き詰めれば、記号を以って記号を解体することの困難だろう。「この記号は記号を解体する」、あるいはより純化して「これは記号ではない」というメッセージを持つ記号は、それが十全に機能するほどその意味内容を裏切ってしまう。ではこの隘路を越え、「フィクション」と名付けられた壮大な記号が自身を解体し、現実の現実と融け合うためにはどうすればいいか。

さて、お忘れの向きもあろうが、改めて、これは五感に訴える演劇である。そして視覚と聴覚は演劇に付き物なれど、触覚嗅覚味覚を駆使させる芝居は稀である。ではなぜ視覚と聴覚以外が演劇に対して外様だったのかと言えば、人類がまだ、触覚嗅覚味覚を記号として用いるその方途を、確立できていないからだ。逆に言えばここにこそ、演劇という記号が、記号を解体するための鍵がある。

無論、聴覚と視覚についても、ゲッコーパレードの『ハムレット』の演出は図抜けている。ここまで見てきた家庭用の電気はもとより、誰もが知る(知らないにしても筋と全く関係ない歌詞が飛び込んでくる)宇多田ヒカルの歌もまた、フィクショナルな意味よりも現実的な存在感を色濃く感じさせることで、記号を現実で汚染する。視覚と聴覚は共謀し、『ハムレット』という「フィクション」が透明にリプレゼンテーションされることを拒む。

だがしかし、それだけでは不十分なのだ。それだけでは、観る者はそこに「男と家族」という別種の「フィクション」を読み込んでしまう。結果として、融け合うのは「虚構」(寄りのフィクション)と「現実」(寄りのフィクション)という二層に留まり、「フィクション」と現実の境界をなし崩しにするには至らない。それほどまでに我々は、視覚と聴覚を「フィクション」に従属させることに慣れてしまっている。極言すれば、劇中に視るものは全て舞台装置となり、聴くものは全てBGMとなる。

その点、演劇に対して外様だった触覚嗅覚味覚は事情が異なる。なにせ座布団越しの古びた床の感触は古びた床以外を意味しないし、納豆とショートケーキが混ざりあった匂いは他の指示対象を持たないし、茶菓子に振る舞われるカントリーマアムはカントリーマアム以外の味を示さない。視覚=照明と聴覚=BGMの二感と異なり、「フィクション」/現実という二層構造を持たないこれらの感官は、あらかじめ、原理的に、両者の境界を骨抜きにしてしまうのだ。ゲッコーパレードの『ハムレット』は、これらの三感を演劇の中に導入することによって、記号を、記号足り得ない現実で以って、ハッキングすることに成功する。

しかしそもそもなぜ、ここまでして「虚構」/「現実」/現実の現実という三層構造は貫通されなくてはならないのか。二つの理由が考えられる。一つ。演劇というジャンル自体が、純粋な記号ではない、人間の(だけでは最近なくなっているようだが)身体を記号として用いる特異な領野であること。つまりその領野は定義上、「フィクション」と現実が融け合った上に成り立つジャンルであり、両者の関係の追究は、ジャンル自体が原理的に持つ欲望である。その探究の結果として、例えば劇中劇という装置が生まれ、「虚構」と「現実」というフィクション内での対立も出来する。言うまでもなく、この探究の最大の功労者がシェイクスピアである。ゲッコーパレードの『ハムレット』は、原『ハムレット』の正当な変奏だといえる。

もう一つ。逆説的なことだが、「フィクション」の力が、弱まっていること。人々は最早ハムレットのように、自分の運命=筋書きを信じることはできないし、劇中劇を観る登場人物を観る際に、さらに外側から我々自身を観る超越者の視線を感じることはできない。それらを「ベタ」に信じることは、狂気の一語へと回収されるだろう。だから我々は「フィクション」があった場所に、現実を据えなくてはならない。その意味でゲッコーパレードの『ハムレット』は、地点の『ロミオとジュリエット』と明確に同時代的な現象である。両者ではともにシェイクスピアの筋書きがコラージュされ、超越性が身体性に取って代わられる。異なるのは後者が過度な運動によって演者の身体性を現前させるのに対し、前者は触覚嗅覚味覚によって観客の身体に訴えることだ。

つまりゲッコーパレードの『ハムレット』を見る限り、今の演劇は「フィクション」から現実へ、物語から体験へとその重心を移しつつある(繰り返すがこの二層構造自体は、演劇が本来的に持っているものである)。したがって、当初の予定の二倍以上に膨れ上がったこの文章の主張は、以下の一言で十分だったのかもしれない――こればかりは是非ご体験をというほかない。



ゲッコーパレードの次回公演は6月9日~のようです!(『ハムレット』ではないですが)

(横山)

編集会議とメンバー紹介

クライテリア編集部は現在、2017年11月発売予定の『クライテリア2』に向けて、月1~2回編集会議+勉強会をしています。その会議を、本日も行いました。

今日の議題は『クライテリア2』の対談企画や、今後の勉強会等について。まだ確定ではないですが、面白くなりそうな対談企画が進行中です。

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ブログ始めてから現在まで、自分たちの紹介を全くしていなかったことに気付いたので、いまさらですがクライテリア編集部のメンバーを紹介します。

上の写真の左から、クライテリア編集長の遠野よあけ(@yoakero)、批評再生塾第2期オブザーバーの横山宏介(@gexive_boyz)、バングラデシュに度々渡航する佐伯良介(@ryoochin)。

下の写真で『DEATH NOTE』のLみたいな椅子の座り方をしているのが、最年少メンバーの野村崇明(@mihailnomrish)です。

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野村くんは大体いつも遅刻してきますが、今日はそんなに遅くならなかったですね。

 

クライテリア編集部のメンバーはあと、批評再生塾第1期総代の吉田雅史(@nejel_mongrel)、ゲンロン勤務で『ゲンロン』編集スタッフの富久田朋子(@puk_mok)、この記事を書いている升本雄大(@masumoto_)の7名で構成されています(2017/5/13現在)。全員、批評再生塾第一期に通っていました。

下記写真は別日の会議の様子。左から遠野、吉田、横山です。

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ところで、今日の会議室の利用料は、2時間で2260円+ワンドリンク(最低でも1人610円)でした。

新宿の貸会議室代の相場はこんなものかと思いますが、頻繁に利用するにはちょっと高いかもなーとも感じました。

山手線圏内で、安くて使い勝手のいい会議室をご存知の方がいたら、ぜひともご教示ください。

 

文責・写真撮影:升本

【完売】第二十四回文学フリマ東京【御礼】

 第二十四回文学フリマ東京にご来場いただいた皆様、ありがとうございました。

 

『クライテリア』は年刊なので新刊もブースもなかったのですが、第一号をヱクリヲさんのブースにおかせていただきました。持ち込み分は途中で完売となり、ブースでお求めいただいたけれど買えなかったという話もチラホラ聞いております。お買い求めくださった皆様、ほんとうにありがとうございます。お買い求めいただけなかった皆様も、『クライテリア』はtwitterのDMで通販を受け付けておりますので、お気軽にお問い合わせください。→twitter:@CriCriteria

 

 今回の文フリで販売した『クライテリア』vol.1、実は増刷分で、内容の変更はないのですが、画像の解像度が上がっていたりいくつかの誤字や体裁の不備が直っていたりします。奥付に「第一版二刷」と書かれているはずなので、ぜひチェックしてみてください。今後通販などでご購入される方にも、恐らく第二刷をお届けすることになると思います(もし第一刷が送られてきたら「レアアイテムだ!」と喜んでいただければ幸いです、、、)。

 

 

 現在クライテリア編集部は、11月発行を目標に『クライテリア』vol.2を制作しております。詳しいことはまだ書けませんが、日本の批評に新しい潮流・理論・コンテンツを導入する、刺激的な一冊になる予定です。大いに期待していてください。なにより私自身が、一人の批評好きとして形になるのを楽しみにしています。

 

(野村)

 

 

【活動報告】吉田雅史「アンビバレント・ヒップホップ」、横山宏介「批評再生塾定点観測記」

 こんばんは。遠野です。

 既にご存知の方も多いかと思いますが、ゲンロンより発行されているメルマガ「ゲンロンβ 13」に、クライテリア編集委員の吉田雅史と横山宏介の二人が寄稿しています。

  

  まず一つ目は、吉田雅史「アンビバレント・ヒップホップ 第8回 ねじれた自意識、ラップの生き死に」。批評再生塾一期終了直後から始まった、ヒップホップ論の連載です。今回の記事では、加藤典洋『アメリカの影』を参照しつつ、日本のラップ文化が「アメリカの影」とどう格闘してきたのか(あるいは、どう忘却してきたのか)という歴史を紐解いています。文学、批評、ヒップホップを並べて軽快に語る吉田節とも呼べる文体は健在で、読んでいて気持ちのいい連載です。

 

 もう一つは、横山宏介「批評再生塾定点観測記 第9回(最終回)」です。こちらは批評再生塾第二期の定期レポートの最終回。「批評再生塾第二期は大団円を迎えた」という「予定調和は退ける」と、挑発的な文章で始まる今回の記事は、批評再生塾第二期の総括という地点から、これまでの再生塾(一期)と、これからの再生塾(三期)を同時に見据えるような構成になっており、批評再生塾という場所を俯瞰して書かれた文章として非常に優れています。もしあなたが批評再生塾三期の参加を考えているとすれば、この記事を読んでおくことは後々必ず役に立つでしょう。
 また少し違う視点から見ると、この記事では先日発売した東浩紀『ゲンロン0』での観光客についての議論をベースに、批評再生塾を考えるという試みも行われており、東浩紀の連続する仕事の中に批評再生塾をどう位置づけるかという命題にも応えていると言えます。そういった部分でも読み応えのある記事です。

 

 そしてなんと、横山の記事については下記サイトにて無料で読めます!

 すごいことです。

genron-tomonokai.com

 

 横山の連載は今回で最終回ですが、吉田の連載は今後も続きますのでどうぞよろしく!


(遠野)

金井美恵子「ピクニック」評

前置き

 以下に掲載する書評は、2016年11月23日開催の「第二十三回文学フリマ東京」にて配布された幻のフリーペーパー「アザー・クライテリア」に掲載された文章の後半部である。

 金井美恵子はしばしば、ヌーヴォー・ロマンに影響を受けたアンチロマンの作家という語り方をされる。「何かを言葉が書き取る時の逡巡や不安、心地よく物語をつくっていくときのある種の欺瞞性にたいし、描写という武器がどうそれに抵抗するかという闘い」という渡部直己の寸評はその典型であろう。「アザー・クライテリア」の前半部で私は、「くずれる水」(1981)という作品に「描写」による「抵抗」を見て取った。

 とはいえ、金井美恵子=アンチロマンという等式はあまりにも単純すぎるように思われる。最初期(1968-1973)の、例えば『兎』などはこの等式から漏れているし、85年以降の「目白四部作」と呼ばれる一群の小説たちは、明らかに物語として書かれている。いかにもアンチロマンといった趣の作品が多く書かれたのは、実際には『岸辺のない海』(1974)から『愛のような話』(1984)までの約10年間である。それ以降の金井は、『あかるい部屋の中で』(1986)や『柔らかい土をふんで、』(1997)といった物語性が希薄な作品と、『恋愛太平記』(1995)や「目白シリーズ」といった物語作品とをバランスよく書いていった、と言うことができるだろう。

 私が「アザー・クライテリア」の後半部で示そうとし、これから本編において示さんとするのは、金井が最もアンチロマン的であった10年間に書かれた『単語集』(1979)の、「ピクニック」という短篇に対する一つの驚きである。脱線を繰り返し続け物語の体をなさない出来事の連鎖が、13個の断章に区切られているこの奇妙な作品には、一読しただけではわからないような形で、骨太な一本の物語が伏流している。私は以下の金井美恵子の発言を手掛かりにその様相を、アンチロマンと物語を調和させようとする、不可能な企ての実践であると解釈した。

 

最もメロドラマ的な人殺しのために使われるナイフなんていう凶器さえが物語的機能を果たすより、ただ女の溶けるような肌に深く深くのみこまれる瞬間をことさら印象づけるだけになってしまう、といったような書かれかたのこと、おっしゃってると思うんです。

ところが作者は同時に、このメロドラマな部分にも、ひどく心をひかれているんですね。

 

 本記事の考察は、メロドラマとアンチロマンという矛盾を超克する、一つのプログラムの解析として行われている。以下、「ピクニック」からの引用は全て『ピクニック、その他の短編』(講談社文芸文庫)に依る。

 

 

本編

 「ピクニック」の大枠を確認しよう。主人公である「彼」(〈〉内では「わたし」)は、今まさに病院で「死にかけている」。この作品は十三個の断章によって構成されているが、第一連から第十二連までの部分は、第十三連に登場する死に際の「彼」による回想だと考えられる。

 「彼」による回想には矛盾点や不明瞭な点が散見される。例えば冒頭の「〈母のところへ牛乳をとどけたら、また戻ってくる〉と女に約束した」という記述は、数行後の「でも、もう牛乳がちゃんと配達されたかどうか、いちいち気を配ることもないのだということに〈わたしは今気がつく〉。」という記述と矛盾している。後に「彼」が一人暮らしであることがほのめかされていることからも、牛乳を届けるべき母親が、「彼」の元にいないことは明らかだ。にもかかわらず「彼」は、あたかも「母」が居るかのような振るまいをみせている。

 似たような振るまいは別の場所にも見いだされる。「彼」が子供のころ家族で行くピクニックが定例行事となっていたが、いつのまにかその習慣は廃れてしまった。その廃れてしまった時期や理由が探られる第四連において、はじめに候補として挙げられたのは「父が死んでから」ピクニックの習慣が廃れてしまった、であった。しかし「彼」の記憶の曖昧さゆえか、ほかにも「ピクニックの習慣が廃れはじめたのは、母が病気で―何の病気だったのだろう――ずっと寝込むようになった頃だったのかもしれない。」といった候補があげられる。さらに母が寝込んでいたという事実そのものも記憶として非常に曖昧であり、「それとも、母は入院していて家にいなかったのだろうか。それとも、若い男と駆け落ちをして家を出てしまっていたのだろうか。それとも、家を出て行ってしまったのは父のほうだったろうか。」と記憶の疑わしさが語られる。

 ここで注目しなければならないのが、第四連で列挙される「父の死」、「母が病気で寝込んだこと」、「母の入院」、「母の家出」、「父の家出」といった出来事に対して、「彼」の態度が露骨に違っていることである。

 父の死、母が病気で寝込むこと、父の家出の三つは記述された直後に何かしらストーリー(記憶)が展開されている。例えば父の死が記述された直後には、父の死後母屋を人に貸すようになった話が続き、また母が病気で寝込んだことが記述された直後には、「彼」と「父」の思い出話が語られる。しかし、母の入院や母の家出が記述された直後には、何のストーリーも展開されない。それどころか、「母の家出」の直後に語られた「父の家出」(とそれに関する後続のストーリー)は「〈そんなことが、本当にあっただろうか〉」と自己言及されるほどに疑わしいものなのである。しかも、父の家出の記述に後続するストーリーには、「まゆみの生垣」、「砂岩丘」、「あみだくじ」のような道、「土蔵」といった、第四連以前に出てきた既出のイメージが繰り返し現れる。まるで、父の家出の記憶が、「彼」の記憶の中にあるもののパッチワークで作られているかのように。父の家出の記憶は、回想の主体である「彼」によって捏造されたものである可能性が高い。

 ではなぜ、回想の主体である「彼」は記憶を捏造したのか? 「〈母のところへ牛乳をとどけたら、また戻ってくる〉と女に約束した」と語る「彼」は、既に確認したように、いなくなった「母」がまだ居るかのように振るまっている。言い換えると「彼」は、母親がまだ失われていないかのような虚偽の回想をしている 。まるで、母の喪失の記憶を否認するかのように。すると、同じように捏造された可能性の高い「父の家出」の記憶とは、母の入院や母の家出の記憶を展開させないために、つまり母の喪失の記憶を否認し、そこから目をそらすために用意された記憶ではないだろうか。

 もちろん、事実として「彼」は母を失っているわけだから、いくら記憶を捏造しようとしたところでうまくいくはずがない。にもかかわらず、記憶を捏造してまで母の喪失を否認しようとする「彼」の姿に、「母」へのおぞましいほどの執着を読み取ることができるだろう。

 

 回想の主体である「彼」は、記憶の捏造以外にもう一つ、母の喪失を否認するための仕掛けを打っている。それは、物語の内容面には表れていない。諸批評家によって読まれ続けてきたアンチロマン的な要素の中にのみ表れる。論を先取りするならば、アンチロマンに立脚しながらも物語に執着する金井美恵子が、その矛盾を超克するために選んだのは、自らが作者としてアンチロマンの方法論を用いることではなく、物語の登場人物を語り手に置き、その語り手にアンチロマンの方法論を用いさせることによって、その方法論自体を物語の中に組み込むことであった、と言えるだろう。詳しく見ていこう。

「ピクニック」に限らず、金井美恵子の作品には「水」のイメージがあふれている。芳川泰久は、金井美恵子の小説における「水」の性質について、次のように語っている。

 

金井美恵子的な〈水〉は、だから、一方では皮膚の存在を際立てながら、他方でその皮膚を接触と共有の場に変え、その皮膚の境界=輪郭そのものをあいまいにしてゆくのだ。(『金井美恵子の想像的世界』)

 

「皮膚の境界=輪郭そのもの」を「あいまい」化する「水」。前章でみた通り、「くずれる水」の「水」はそのようなものであった。その「水」は同時に、物語への接近と差異化とが闘争する舞台であったことも、既に見た。そして「ピクニック」の「水」にも、同様のものを見て取ることができる。

 

彼女の(彼女たち、の)身体とあまり深く密着していたので、〈私にはどこからが自分の身体で、どこからが彼女の(彼女たち、の)身体なのか、まるでわからなかった〉。深く密着した器官の皮膚をとおして、体液が浸透しあい、柔らかな粘膜の壁――あるいは肉質の透明な布―に包まれながら、〈私は自分が、柔らかな、水で出来た壁でもあることを発見する〉。

(中略)

〈わたしは彼女に(彼女たち、に)なる〉

(中略)

〈わたしの輪郭を無限に溶解させながら〉(p. 157-158)

 

 境界=輪郭が曖昧になった結果、互いに「溶解」してしまう。つまり、互いが水そのものになり、渾然一体となった存在になってしまう。

 輪郭を曖昧化する主題論的「水」を行使する権利を作者から受け取った「彼」は、ある一つの目的をもって死の間際に回想を始める。すなわち、母の喪失の否認である。いや、アンチロマンの方法論によって行われる彼の計画は、喪失の否認などという生易しいものでは終わらない。「彼」は、喪失した母の代補を作り出そうとしている。物語冒頭でまず、「彼」は意図的に母と動作を共有する。それは、「牛乳」を媒介として行われる。

 

一リットルもの牛乳を母は毎朝飲んだものだ。顔をしかめ、のけぞらせた白い咽喉を液体が流れ落ちる速度でふるわせながら。(p. 146)

 

牛乳を咽喉に流し込み、顔をしかめながら飲み干して、とにかくあの部屋に戻ってみることにしようと考えた。(p. 146-147)

 

  わずか二行を挟んで、よく似た文がならべられている。渡部直己の言を借りればこのとき、金井美恵子のテクストは読者を「テクストの生産に加担すべき位置に引き寄せ」てしまっている。先に「母」が牛乳を飲む描写を見た読者は、これとよく似た後者の文章を読むとき、彼が牛乳を飲む姿と同時に、たった二行前で行われた母の動作までを思い浮かべてしまうだろう。彼と母は、読者の中で否応なしに結び付けられる。

 この場面の直後、牛乳瓶を介して「彼」に想起されるのは、「彼」と肉体関係を持つ「彼女」だ。「彼」は「彼女」に、「彼」が共有し損ねた「のけぞった」という修飾語を共有させようとする。

 

糸状の唾液はあおむいている顎に伝わり、唾液は頬から顎へまじわる皮膚の斜面をはすかいに流れて、軽くのけぞった咽喉のあたりまで濡らしてしまう。(p. 147)

 

「彼」と「母」の結びつきの強さに比べ、「母」と「彼女」の結びつきのなんと脆いことか。わずか二行先で同じ動作を、同じ修飾語(「顔をしかめながら」)をもって共有した「彼」と「母」は、否応なく結び付いてしまうが、十一行先で、片や牛乳を飲むこと、片や「彼」との情事というまったく別々の動作の中で共有された「のけぞった」という形容詞は、二人を結びつけることは出来ないだろう。

 動作や形容詞の共有によって「彼女」と「母」を結びつけることができなかったためか、その後「彼」は第九連において、「彼女」=「女」の家まで赴き、共有よりもより確実な手段として、肉体関係を取り結ぶ。

 

彼女の(彼女たち、の)身体とあまり深く密着していたので、〈私にはどこからが自分の身体で、どこからが彼女の(彼女たち、の)身体なのか、まるでわからなかった〉。深く密着した器官の皮膚をとおして、体液が浸透しあい、柔らかな粘膜の壁―あるいは肉質の透明な布―に包まれながら、〈私は自分が、柔らかな、水で出来た壁でもあることを発見する〉。

(中略)

〈わたしは彼女に(彼女たち、に)なる〉

(中略)

〈わたしの輪郭を無限に溶解させながら〉

 

 

 既に一度引用した箇所だが、その重要性を際立たせるため再度引用した。すでに「母」と結びついた「彼」と渾然一体となることによって、今度こそ「母」と「彼女」は結びつけられ、「彼女」は「母」の代補となることができるはずだ。しかし、結末において「息子さんのお母様」という形で母になった「彼女」は、「彼」の前には決して現れなかった。そのうえ、第十三連において「〈私には母親が誰なのかまるで思い出せない〉」とまで言われてしまうのだから、「彼女」は「母」の代わりにはなれなかったらしい。ではなぜ、「彼女」は「彼」の望む「母」になれなかったのか? その答えは、物語の冒頭に暗示されている。

 

牛乳壜の厚ぼったいガラスの感触が、〈彼女のことを思い出させるのに私は気づく〉。(中略)歯で軽く噛むと、実のつまった酸漿のように脆く柔らかなのに弾力のある筋肉が一時もじっとしていない唇の端から、光る糸状の唾液が筋を引きながら流れる。糸状の唾液はあおむいている顎に伝わり、唾液は頬から顎へとまじわる皮膚の斜面をはすかいに流れて、軽くのけぞった咽喉のあたりまで濡らしてしまう。(p. 147)

 

「彼女」は「牛乳壜の厚ぼったいガラスの感触」によって想起された。にもかかわらず、回想の中の「彼女」は「牛乳壜」のイメージとは裏腹に唾液を零してしまっている。物語中でも彼女は、度々内にある水を零し、自らの「咽喉」を「濡らしてしま」ったのと同じ要領で、外界を濡らしてしまう。現に彼女の住む「薄暗い湿った建物」は第九連において肉体関係を結んだあと、「水族館のように生臭く湿って」しまう。つまり、「水」のイメージによって〈わたし〉の輪郭が溶けて、〈わたし〉が水化しても、「彼女」の内側にその水は浸透せず、全て外に零れてしまうのだ。

 母屋での眠りを「溺れかかる過剰な水の夢など見はしない。むしろ、ひっそりと熟成する水蜜桃の夢に似た眠り。」と表現し、その様子を「安心感」による「大いなる眠り」と表現する「彼」にとって、水を内側から溢れさせてしまう、「溺れかかる過剰な水」に近い「彼女」は、「母」の代わりとはなりえなかったのだろう。「母」の代補になりうる存在とは、「ひっそりと熟成する水蜜桃」のような存在であるのだから。

 すると第二連において、会ったばかりであるにも関わらず「彼」が無意識にピクニックに誘ってしまった牛乳売りの「少女」の存在は、俄然大きな意味を持ってくる。

 

 牛乳売りの「少女」に結びつけられたイメージを見ていこう。

 

少女の素脚の丸い膝頭は水蜜桃そっくりで、白い腕は水の中の藻のように優美にきらめきながら、靴の両側にたれている紐を指にからめ小さな蝶結びをこしらえた。腕の内側の薄青く浮きあがっている血管は運河の地図のように見える。そしてこの運河の水源を見つけるのはとても簡単だ。そう、ようするに心臓を水源として身体中を網目状に走る運河。その表面に薄っすらと汗を滲ませて光っている産毛の生えた運河の地図。(p. 148-149)

 

 牛乳売りの「少女」は執拗なほど「水」のイメージと結びつけられているが、水を零す「彼女」と違って、内側に水を蓄えている。つまり牛乳売りの「少女」は、水を内側に浸透させることができ、かつ表面にも薄っすらと水を浮かべることができる存在、まさに「熟成する水蜜桃」に似た存在として描かれている。すると、牛乳売りの「少女」は「彼女」よりもずっと、「母」の代補に適しているといえるだろう。だからこそ「彼」は無意識に、牛乳売りの少女に惹かれてしまうのだ。

 しかし、「彼女」との肉体関係の後では、今から牛乳売りの「少女」に会いに行っても「遅すぎることに気がつく」。なぜ、遅すぎるのか。「彼女」との肉体関係によって、「輪郭が無限に溶解」=水化した「彼」は、「彼女」に「浸透」しようとした。そうすることで、「彼」と結びつけられた「母」のイメージを、「彼女」に与えるために。しかし彼女は水を零してしまった。肉体関係の後、彼女の家はより湿り、彼女からあふれた水は雨になる。

 

やがて雨が降り出すだろう。灰色のゼラチンみたいにねばつく水滴となって、運河のガソリンが鱗粉のようにあくどい皮膜を浮かべた黒い水面に落ち、運河の底の深みに達することなく、水の表面に溶け込みながら。(p. 158)

 

 ここで、すでに執拗なまでに水、特に運河と結びつけられた牛乳売りの「少女」を思い出さずにはいられない。「彼女」からあふれた水を浴びた「運河」は、その奥まで水を浸透させず、「水の表面に溶け込」ませる。そして「運河」と強く結び付けられた「少女」もまた、「輪郭が無限に溶解」=水化した「彼」を浸透させることができない。そうなってしまったあとでは、全てが「遅すぎる」のだ。

 一見すると、「ピクニック」において物語が主役の位置を占めているようには見えない。しかし、つじつまの合わなさや断章形式、さらには輪郭を曖昧化する(個人の物語を解体する)「水」による物語の解体そのものが、母への強い執着からなされる「母親の代補探し」の物語の一部となっている。そしてその物語は、牛乳売りの「少女」ではなく「彼女」を代補として選んでしまった時点で、バッドエンドへと向かうことが決まっていた。「ピクニック」は、「母」を傾慕した男の悲喜劇として、読み直されるべきだろう。

 

(野村)

 

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