クライテリア

批評誌『クライテリア』によるブログです。

ゲッコーパレード『ハムレット』評

先月、ゲッコーパレード『ハムレット』の再演を見てきました。この芝居については『クライテリア1』で山崎健太が既に論じており、屋上屋を架すことになるので書かないつもりでいたのですが(公演は素晴らしいものでした)、ブログ記事として少し書き散らしてみます(すでに観劇から一月以上が経過しているので、記憶違いがあったらごめんなさい)。ちなみに以下では、『ハムレット』という表記は基本的にゲッコーパレード版を指し、シェイクスピアの戯曲は「原作」また「原『ハムレット』」と表記することにします。『クライテリア1』に所収された山崎健太「存在と非在のあいだで」と併せてお読みいただけると幸いです。


これは五感に訴える演劇である。『戯曲の棲む家』と題されたシリーズの一環として民家(1970年代築)のリビングを舞台に、もう一室を客席として上演される『ハムレット』。座布団からは民家の床の感触が直に伝わり、登場人物の食べる納豆の香りが(時にショートケーキのそれと混ざりつつ)漂い、上演中にはなぜか茶菓子が振る舞われる。視覚と聴覚は演劇に付き物なれど、触覚嗅覚味覚を駆使させる芝居は稀だろう。こればかりは是非ご体験をというほかない。

それゆえ体験を再現できない本稿に語りうるのは、主として聴覚か視覚ということになろう。こちらの演出も図抜けている。俳優たちの声色づかいやBGMの宇多田ヒカルもさることながら、素晴らしいと感じたのは照明である。なので視覚に話を絞って進めれば、この舞台には二種類の照明がある。舞台に備え付けられた、ということはごく普通の民家の電気と、通常の(が意味するところもなし崩しだが)舞台照明である。そのどちらもが落とされた真っ暗闇から始まり、小道具として卓上ライトやLEDのミラーボールが印象深く用いられるこの劇の主役は照明だと論を進めたくもなるのだが、ここでは上二種類の照明に話題を限ろう。言うまでもなく、後者がついている時は劇が演劇めき、前者の場合は家庭めく。この組み合わせは演劇批評家の山崎健太が本作に見る、「存在」(=「現実」)と「非在」(=「虚構」)の二重化に通じるものだ。

観客に〔ハムレットを演じる〕「男と家族」が見えるのは、〔……〕舞台となっているのが民家であったからに他ならない。「男と家族」というフィクションのレイヤーは、旧加藤家住宅という現実によって支えられている。だからこそ、「よりたしからしい」フィクションとして観客に知覚されるのだ。(「存在と非在の間で――ゲッコーパレード『ハムレット』評」

本作はハムレットの台詞を口ずさむ男が真っ暗な台所に二階から降りてくることから始まる。その後、男によって『ハムレット』が演じられる、のか、狂った男の妄想が開陳されているかの区別はしがたい(なにせ原作の台本の順序はバラバラに再構築されている)。それについては山崎が論じているので措くとして、ここでは要は、「男と家族」=「現実」(寄りのフィクション)というレイヤーと「ハムレット」=「虚構」(寄りのフィクション)という二つのフィクションのレイヤーが存在することだけ分かってくれればいい。その複数の層(さらにそこに現実の現実が加わるが、その層には後ほど触れる)の貫通がこの『ハムレット』の醍醐味である、というのも山崎が指摘するところだ。

そのうえで本稿が注目したいのは、そのフィクションの二層の切り替えに、電気と舞台照明は一役買っている、ということである。スポットライトが照らす間、背景の家庭は暗闇に沈む。しかし一方で、普通の電気が点いているときでも、観客はそれを現実の現実としては見ないということは強調しておこう。それが「よりたしからしい」ものだとしても、「男と家族」の遣り取りもまた「フィクション」である。それは、電気が点いているときでも語られる台詞が原『ハムレット』のものだから、だけではない。たとえ家庭に似つかわしい、例えば結婚を巡る親子の遣り取りがなされていたとしても、観る者はそれを家族劇として見るだろう。

つまりどちらの照明が点いているときでも、「劇であること」に違いはない。照明の操作によって変わるのは、視覚の「劇的さ」具合であり、一貫して「劇的」な原作の台詞との開きである。それは劇が「ベタ」に見えるか「ネタ」に見えるかのモードとも言い換えることができよう。では、なぜそんな切り替えをするのかと言えば、原『ハムレット』のテーマが、ハムレットが狂気を演じているのか=「ネタ」なのか、本当に狂ってしまったのか=「ベタ」なのかという点にあるからだ。

デンマークの王子ハムレットは、父王の亡霊に、自分を暗殺した叔父クローディアスに復讐するように誓わされる。そしてハムレットはそのために、狂気を演じるという手段を取る。だが劇が進むに連れエスカレートしていくその振る舞いは、登場人物にも観客にも(あるいはハムレット自身にも?)演技なのか本気なのかが定かではなくなってくる。この主題と劇中劇『ゴンザーゴー殺し』の存在により、『ハムレット』は演じることをめぐる劇だとされている。

だから照明の切り替えによって「ベタ」モードと「ネタ」モードが切り替わるゲッコーパレードの『ハムレット』は、原『ハムレット』の正当な変奏だといえる。しかし、ここで切り替わっているのはあくまで観客のモードだけであることに留意しよう。というのも繰り返せば、登場人物たちが語るのは一貫して「劇的=ベタ」な『ハムレット』の台詞だからだ。むしろ観客が「ネタ」モードの中「劇的」な台詞を喋り続けることで、「男」は本当に狂っているのではないかという疑念は強くなる。照明は作品世界の外にある。

そして男の狂気は、原『ハムレット』とはいささか異なった結末へと行き着く。ゲッコーパレード版『ハムレット』のラストには、原作の冒頭近く、ハムレットが初登場する場面となる、クローディアスとハムレットと母ガートルードの三者による(食卓を挟んだ)会話が来る。そしてその場面は、ハムレットがクローディアスに言いくるめられて終わるのだ。つまりこの『ハムレット』では、王殺しは失敗する。演じることを巡る独白を挟んだのち、全てが「男」の狂気の産物だったかのように女二人が踊る幻想的な(というかほとんど奇妙な)幕切れを、色とりどりの舞台照明が極彩色に照らす。

これは――その過程が佯狂であったか否かは兎も角――王殺しを果たし極めて整然と死ぬ原作のハムレットとは対照的である。彼は自らの人生を正しく「物語」にするよう友人ホレーシオに託し、「あとは、沈黙」という言葉でその人生=物語を締める。ハムレットは父王の遺言という筋書きを完遂・完成することに成功したが、「男」はハムレットを演じることに失敗し、「虚構」と「現実」の境界はなし崩しにされる。「ベタ」の徹底化によって、「ベタ」と「ネタ」の対立も消失してしまう。

ゲッコーパレードの『ハムレット』では、「男」はハムレットを演じることに失敗し、「虚構」と「現実」の境界はなし崩しにされる。しかしほとんど揚げ足取りのように裏を返せば、男は「ハムレットを演じることに失敗する」のを演じることに成功しているとも言える。このことは先に触れた、それが「よりたしからしい」ものだとしても「男」もまた「フィクション」である、ということと同義である。つまり、照明が「ネタ」と「ベタ」のモードを切り替え、ラストで「虚構」対「現実」の境界を切り崩してしまうとしても、「フィクション」対現実の現実というより大きな対立は温存されるのではないか。

ここには、「虚構」と「現実」という枠組み自体を問題化する「フィクション」が必然的に陥るアポリアがあるように思える。これは突き詰めれば、記号を以って記号を解体することの困難だろう。「この記号は記号を解体する」、あるいはより純化して「これは記号ではない」というメッセージを持つ記号は、それが十全に機能するほどその意味内容を裏切ってしまう。ではこの隘路を越え、「フィクション」と名付けられた壮大な記号が自身を解体し、現実の現実と融け合うためにはどうすればいいか。

さて、お忘れの向きもあろうが、改めて、これは五感に訴える演劇である。そして視覚と聴覚は演劇に付き物なれど、触覚嗅覚味覚を駆使させる芝居は稀である。ではなぜ視覚と聴覚以外が演劇に対して外様だったのかと言えば、人類がまだ、触覚嗅覚味覚を記号として用いるその方途を、確立できていないからだ。逆に言えばここにこそ、演劇という記号が、記号を解体するための鍵がある。

無論、聴覚と視覚についても、ゲッコーパレードの『ハムレット』の演出は図抜けている。ここまで見てきた家庭用の電気はもとより、誰もが知る(知らないにしても筋と全く関係ない歌詞が飛び込んでくる)宇多田ヒカルの歌もまた、フィクショナルな意味よりも現実的な存在感を色濃く感じさせることで、記号を現実で汚染する。視覚と聴覚は共謀し、『ハムレット』という「フィクション」が透明にリプレゼンテーションされることを拒む。

だがしかし、それだけでは不十分なのだ。それだけでは、観る者はそこに「男と家族」という別種の「フィクション」を読み込んでしまう。結果として、融け合うのは「虚構」(寄りのフィクション)と「現実」(寄りのフィクション)という二層に留まり、「フィクション」と現実の境界をなし崩しにするには至らない。それほどまでに我々は、視覚と聴覚を「フィクション」に従属させることに慣れてしまっている。極言すれば、劇中に視るものは全て舞台装置となり、聴くものは全てBGMとなる。

その点、演劇に対して外様だった触覚嗅覚味覚は事情が異なる。なにせ座布団越しの古びた床の感触は古びた床以外を意味しないし、納豆とショートケーキが混ざりあった匂いは他の指示対象を持たないし、茶菓子に振る舞われるカントリーマアムはカントリーマアム以外の味を示さない。視覚=照明と聴覚=BGMの二感と異なり、「フィクション」/現実という二層構造を持たないこれらの感官は、あらかじめ、原理的に、両者の境界を骨抜きにしてしまうのだ。ゲッコーパレードの『ハムレット』は、これらの三感を演劇の中に導入することによって、記号を、記号足り得ない現実で以って、ハッキングすることに成功する。

しかしそもそもなぜ、ここまでして「虚構」/「現実」/現実の現実という三層構造は貫通されなくてはならないのか。二つの理由が考えられる。一つ。演劇というジャンル自体が、純粋な記号ではない、人間の(だけでは最近なくなっているようだが)身体を記号として用いる特異な領野であること。つまりその領野は定義上、「フィクション」と現実が融け合った上に成り立つジャンルであり、両者の関係の追究は、ジャンル自体が原理的に持つ欲望である。その探究の結果として、例えば劇中劇という装置が生まれ、「虚構」と「現実」というフィクション内での対立も出来する。言うまでもなく、この探究の最大の功労者がシェイクスピアである。ゲッコーパレードの『ハムレット』は、原『ハムレット』の正当な変奏だといえる。

もう一つ。逆説的なことだが、「フィクション」の力が、弱まっていること。人々は最早ハムレットのように、自分の運命=筋書きを信じることはできないし、劇中劇を観る登場人物を観る際に、さらに外側から我々自身を観る超越者の視線を感じることはできない。それらを「ベタ」に信じることは、狂気の一語へと回収されるだろう。だから我々は「フィクション」があった場所に、現実を据えなくてはならない。その意味でゲッコーパレードの『ハムレット』は、地点の『ロミオとジュリエット』と明確に同時代的な現象である。両者ではともにシェイクスピアの筋書きがコラージュされ、超越性が身体性に取って代わられる。異なるのは後者が過度な運動によって演者の身体性を現前させるのに対し、前者は触覚嗅覚味覚によって観客の身体に訴えることだ。

つまりゲッコーパレードの『ハムレット』を見る限り、今の演劇は「フィクション」から現実へ、物語から体験へとその重心を移しつつある(繰り返すがこの二層構造自体は、演劇が本来的に持っているものである)。したがって、当初の予定の二倍以上に膨れ上がったこの文章の主張は、以下の一言で十分だったのかもしれない――こればかりは是非ご体験をというほかない。



ゲッコーパレードの次回公演は6月9日~のようです!(『ハムレット』ではないですが)

(横山)