クライテリア

批評誌『クライテリア』によるブログです。

そのたびごと、たった一回の普遍――『ハクソー・リッジ』について

 今、メル・ギブソン監督の最新作『ハクソー・リッジ』が話題だ。

 この映画は、「汝、殺すなかれ」という戒律を自らの信念とする主人公デズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)が、衛生兵として沖縄戦の激戦地である前田高地に立ち、多くの命を救ったという実話を基にしている。敵兵を殺さなければ、自らとその仲間たちがあまりにもあっけなく殺されてしまう戦場において、それでも武器を一切持たず、時には敵をも助けようとするドスの姿は、メル・ギブソンお得意の激しい暴力描写と相まって英雄的な相貌を見せており、沖縄が舞台であることと合わせて、確かに話題となるだけの要素を備えているように見える。しかし今この映画が話題となっているのは、上記のような要素によるのではない。むしろ日本におけるプロモーションが、それらの要素を全て捨象してしまったことによる。

 

 ある宣伝イベントでは、沖縄が舞台であることや戦闘描写の臨場感よりも、『フルメタル・ジャケット』とほとんど変わらない(どころかそれよりも温く見える)「過酷な訓練」という細部にフォーカスし、それを茶化すようなプロモーションが行われたという。また予告編においても、舞台が沖縄であることが明示されることはない。作中の最もセンセーショナルな要素が宣伝においてことごとく捨象されてしまったのは、どうやら理由なきことではないらしいが、それでもこの宣伝の酷さは大きな議論(主に批判的なもの)を呼んだ。『ハクソー・リッジ』は結果として、メル・ギブソンの十年ぶりの新作ということ以上に、宣伝が酷すぎる映画として多くの耳目を集めた。

 配給会社であるキノフィルムズによれば、舞台が沖縄であることを明記しなかったのは、むしろ沖縄への配慮の結果であるという(注1)。確かにこの映画は、沖縄戦の描き方のみならず、日本人の描き方も、アメリカ側から見たステレオタイプなものとなっていて、沖縄戦を描いた作品と呼ぶには、あまりにもお粗末である。舞台である前田高地も、その歴史性や特異性は徹底的に捨象され、ドスの原風景である「崖」との重なりのみが重視されている。とはいえここで問題とすべきなのは、ステレオタイプな表象の単純さそのものではなく、その単純さがこの映画のテーマによって必然的に要請されていることだろう。

 

 ”a true story”という字幕から始まるこの映画は、ドスが前田高地で負傷し死にかけているシーンから始まり、そこに至るまでの18年間を辿るという構成になっている。18年前、子供時代のドスは、落ちたら確実に死ぬであろう崖の淵に立ってそのスリルに奇声をあげたり、エスカレートした喧嘩の果てに相手をレンガで殴りつけてしまったりする、奔放なところのある少年であった。ときに「野生」という言葉をも思わせるその無秩序っぷりは、戦争帰りの父親がアルコール中毒を患っているために、子供の規範となることも、道理を教えるということもできないということに起因している。その不能の父の代わりにドスに法を教えたのが神だ。兄弟をレンガで殴りつけ昏倒させてしまったドスを、父親は暴力によって馴致しようとする。しかし父親の怒鳴り声は、ドスの耳には届かない。ドスはふと目に入った一節、「汝、殺すなかれ」に惹きつけられ夢中になっているからだ。それ以来、この戒律はドスの信仰の中心となり、法となった。

 とはいえこの神も、父親と同程度の不能性を抱えている。ドスにとって神は法であり指針であるが、彼は「汝、殺すなかれ」という戒律を他者に押し付けることはなく、また殺人を犯す人間を軽蔑する様子もない。ドスにとって神への信仰とは、神の全能性と普遍性に依拠するものではなく、至極個人的なものなのだ。普遍である神が定める秩序が、至極個人的な信念にしかならないというこのパラドックスは、しばしば「信教の自由」という名で呼び定められる。神の定める法は真理であり、普遍である。憲法はその真理への信仰を、個人的な信念として保護する。

 青年になったドスは、自らの信念を理由に徴兵を拒否するも、真珠湾攻撃愛国心を刺激され、殺人以外の方法で国家に尽くそうと考えて、陸軍に衛生兵として志願する。ドスは初期入隊訓練において持ち前の身体能力を遺憾なく発揮するも、ライフルを使った訓練だけは拒否し、上官と激しく衝突する。この、「汝、殺すなかれ」と軍隊の規律とのコンフリクトは、合衆国憲法という上位の法によって調停され、結局ドスはライフルを使った訓練をせずに済んだ。憲法がドスを守ったのは、彼の信仰が普遍ではなく、個人的な信念としてのみ表明されていたおかげである。ドスの信仰は、憲法国民国家の秩序において普遍という資格を剥奪された、不能の神への信仰なのだ。

 この映画はドスを、あまりにも露骨に、キリストの物語、特に受難をめぐる物語と重ね合わせている。しかし、「我に触れるな」というキリストの有名な言葉を、暴力の嵐の中で、PTSDすれすれの混乱とともに二度も叫ぶ姿は、全能の神の子というイメージよりも、その不能性の刻印の方をはっきりと見せつける。この不能性は、ドスのフィアンセであるドロシー・シュッテ(テリーサ・パーマー)の愛や、合衆国憲法の定める「信教の自由」によって、辛うじて埋められている。しかし、物語の舞台が戦場に移ると、事情が変わってくる。

 問題が秩序同士(軍隊の規律と個人の信仰=信念)の対立であった頃は、憲法というより上位の秩序が、コンフリクトを調停しドスの信念を守ってくれた。また日常においては、ドスのおかしな振る舞いを、信念として認め愛してくれるドロシーがいた。しかし戦場という秩序の底割れ状態においては、個人の信念と無秩序とを調停してくれるものがない。それどころか、衛生兵となって人々を助けたいというドスの思いとは裏腹に、銃弾飛び交う戦場の中でドスが救い出せる人数には限りがあり、火炎放射器日本兵を焼き尽くすアメリカ兵の方が、結果としてより多くの人間を助けている。敵兵をより多く殺すことがより多くの味方を助けるという、暴力のシーソーゲームの中に、ドスの信念の置き場所はない。ドスはその現実の過酷さを前にして、幾度か正気を失いかける。

 状況を変えるのは、さらなる暴力である。日本兵の猛攻を前にして、アメリカ軍は戦艦による対地射撃に攻撃を切り替え、負傷者を置き去りにしたまま前田高地から撤退する。ドスの英雄的な救出劇は、ここから始まる。両軍の暴力が均衡していた頃と違って、友軍撤退後の前田高地は、その戦力差のために、敵兵をより多く殺したところで、誰も助かりようがない場である。戦場という例外状態はそれ自体秩序の底が割れているが、友軍撤退後の前田高地は、暴力の均衡の崩壊によってさらにもう一段底の割れた、アメリカ兵にとって純粋に受難的な場であると言えるだろう。そのような過酷な状況の中で、ドスは神からの徴を受け取る。取り残された仲間の”Medic!”という叫び声だ。戦場においてわずかな時間現れる、暴力が無意味なこの特殊な状況においてなら、ドスは自らの信仰を貫き通し、そこに意味を見出すことができる。だからこそ彼はただ一人、武器を持たずに戦場へと引き返していく。結果彼は多くの人間を助け出し、友軍にも英雄として認められるようになる。

 戦争という例外状態においては意味を持たず、純粋な受難にまで至って初めて意味を持つドスの信仰は、あまりにもグロテスクに見える。それは結局、手前勝手な信仰の正当化のために、より激しい苦痛を必要としてしまっているからだ。『ハクソー・リッジ』はこの苦痛をより徹底的なものとするために、慈悲なき怪物としての日本兵というステレオタイプな表象を要請し、沖縄戦で犠牲になった民間人などには触れもしない。前田高地も、ドスの個人的な信仰の深化のための舞台装置にしかならない。普遍を失った個人的な信仰が作品のテーマである限り、その信仰が意味を持つ特殊なシチュエーションが必要となり、どうしても舞台装置は単純にならざるを得ないのだ。

 

 この映画はしかし、歪な信仰を少しだけ普遍へと開いている。救出劇の翌日、アメリカ軍はドスの信仰を軍にとって不可欠なものとみなし、彼の安息日の祈りのために再侵攻の時刻を遅らせた。もちろんこれは、誰かを英雄として担ぎ上げ、味方の士気を上げる戦略の一環ではある。しかし同時に、ドスの信仰が憲法を必要としなくなり、個人という枠を超えた瞬間でもある。信念が起こした、特殊なシチュエーションにおいてしか可能でない、そのたびごと、たった一回の奇跡が、個人的な信仰を少しだけ普遍に近づけたのだ。

 物語は前田高知への再侵攻の際に負傷したドスの、昇天の描写で終わる。間違いなくドスは、映画の結末において死んだ。しかしエンディングにおいてスタッフロールと共に流れるのは、現実の戦争を生き延びたドス本人のインタビュー映像である。そこで現実のドスは、いかなる秩序によっても傷つけられない、個人的な信念を貫き通すことの尊さを語る。このドスは明らかに、映画の中のドスではない。物語を通してドスは、国民国家の成員=ナショナリストとしての現実的なドスと、普遍を志向し、不能の神の子としてPTSDすれすれのキリストを演ずる象徴的なドスとに分裂したのだ。現実的なドスは、残念ながら2006年に亡くなってしまっている(享年87歳)。では、映画の結末において昇天した象徴的ドス=不能の神の子は、どこに復活しうるのか。当然、映画を見た観客の共感の中に、である。ドスの奇跡に感化され、それが少しでも誰かにとって不可欠なものとなるならば、象徴的ドスの信仰はまた少しだけ、普遍に近づいていくのだ。

 

 『ハクソー・リッジ』で描かれる信仰や受難には、拭いがたい歪さが付きまとうが、しかしこの映画が真に志向しているのは、特定の信仰に局限されない、もっと抽象的な普遍性への漸近と言えるだろう。その意味で、作品の特異性をあえて捨て去り、結果として話題を呼ぶことに成功した酷すぎる宣伝は、限りなく『ハクソー・リッジ』的である、と言いうるのかもしれない。

 

 

(注1)「映画『ハクソー・リッジ』は沖縄の地名。でも宣伝文句に「沖縄」の言葉はゼロ…なぜ?」 https://www.buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/hacksaw-ridge-okinawa?utm_term=.aeW4jX2k4 最終閲覧日時2017/6/29 22:45 

 

 

 

野村崇明