クライテリア

批評誌『クライテリア』によるブログです。

金井美恵子「ピクニック」評

前置き

 以下に掲載する書評は、2016年11月23日開催の「第二十三回文学フリマ東京」にて配布された幻のフリーペーパー「アザー・クライテリア」に掲載された文章の後半部である。

 金井美恵子はしばしば、ヌーヴォー・ロマンに影響を受けたアンチロマンの作家という語り方をされる。「何かを言葉が書き取る時の逡巡や不安、心地よく物語をつくっていくときのある種の欺瞞性にたいし、描写という武器がどうそれに抵抗するかという闘い」という渡部直己の寸評はその典型であろう。「アザー・クライテリア」の前半部で私は、「くずれる水」(1981)という作品に「描写」による「抵抗」を見て取った。

 とはいえ、金井美恵子=アンチロマンという等式はあまりにも単純すぎるように思われる。最初期(1968-1973)の、例えば『兎』などはこの等式から漏れているし、85年以降の「目白四部作」と呼ばれる一群の小説たちは、明らかに物語として書かれている。いかにもアンチロマンといった趣の作品が多く書かれたのは、実際には『岸辺のない海』(1974)から『愛のような話』(1984)までの約10年間である。それ以降の金井は、『あかるい部屋の中で』(1986)や『柔らかい土をふんで、』(1997)といった物語性が希薄な作品と、『恋愛太平記』(1995)や「目白シリーズ」といった物語作品とをバランスよく書いていった、と言うことができるだろう。

 私が「アザー・クライテリア」の後半部で示そうとし、これから本編において示さんとするのは、金井が最もアンチロマン的であった10年間に書かれた『単語集』(1979)の、「ピクニック」という短篇に対する一つの驚きである。脱線を繰り返し続け物語の体をなさない出来事の連鎖が、13個の断章に区切られているこの奇妙な作品には、一読しただけではわからないような形で、骨太な一本の物語が伏流している。私は以下の金井美恵子の発言を手掛かりにその様相を、アンチロマンと物語を調和させようとする、不可能な企ての実践であると解釈した。

 

最もメロドラマ的な人殺しのために使われるナイフなんていう凶器さえが物語的機能を果たすより、ただ女の溶けるような肌に深く深くのみこまれる瞬間をことさら印象づけるだけになってしまう、といったような書かれかたのこと、おっしゃってると思うんです。

ところが作者は同時に、このメロドラマな部分にも、ひどく心をひかれているんですね。

 

 本記事の考察は、メロドラマとアンチロマンという矛盾を超克する、一つのプログラムの解析として行われている。以下、「ピクニック」からの引用は全て『ピクニック、その他の短編』(講談社文芸文庫)に依る。

 

 

本編

 「ピクニック」の大枠を確認しよう。主人公である「彼」(〈〉内では「わたし」)は、今まさに病院で「死にかけている」。この作品は十三個の断章によって構成されているが、第一連から第十二連までの部分は、第十三連に登場する死に際の「彼」による回想だと考えられる。

 「彼」による回想には矛盾点や不明瞭な点が散見される。例えば冒頭の「〈母のところへ牛乳をとどけたら、また戻ってくる〉と女に約束した」という記述は、数行後の「でも、もう牛乳がちゃんと配達されたかどうか、いちいち気を配ることもないのだということに〈わたしは今気がつく〉。」という記述と矛盾している。後に「彼」が一人暮らしであることがほのめかされていることからも、牛乳を届けるべき母親が、「彼」の元にいないことは明らかだ。にもかかわらず「彼」は、あたかも「母」が居るかのような振るまいをみせている。

 似たような振るまいは別の場所にも見いだされる。「彼」が子供のころ家族で行くピクニックが定例行事となっていたが、いつのまにかその習慣は廃れてしまった。その廃れてしまった時期や理由が探られる第四連において、はじめに候補として挙げられたのは「父が死んでから」ピクニックの習慣が廃れてしまった、であった。しかし「彼」の記憶の曖昧さゆえか、ほかにも「ピクニックの習慣が廃れはじめたのは、母が病気で―何の病気だったのだろう――ずっと寝込むようになった頃だったのかもしれない。」といった候補があげられる。さらに母が寝込んでいたという事実そのものも記憶として非常に曖昧であり、「それとも、母は入院していて家にいなかったのだろうか。それとも、若い男と駆け落ちをして家を出てしまっていたのだろうか。それとも、家を出て行ってしまったのは父のほうだったろうか。」と記憶の疑わしさが語られる。

 ここで注目しなければならないのが、第四連で列挙される「父の死」、「母が病気で寝込んだこと」、「母の入院」、「母の家出」、「父の家出」といった出来事に対して、「彼」の態度が露骨に違っていることである。

 父の死、母が病気で寝込むこと、父の家出の三つは記述された直後に何かしらストーリー(記憶)が展開されている。例えば父の死が記述された直後には、父の死後母屋を人に貸すようになった話が続き、また母が病気で寝込んだことが記述された直後には、「彼」と「父」の思い出話が語られる。しかし、母の入院や母の家出が記述された直後には、何のストーリーも展開されない。それどころか、「母の家出」の直後に語られた「父の家出」(とそれに関する後続のストーリー)は「〈そんなことが、本当にあっただろうか〉」と自己言及されるほどに疑わしいものなのである。しかも、父の家出の記述に後続するストーリーには、「まゆみの生垣」、「砂岩丘」、「あみだくじ」のような道、「土蔵」といった、第四連以前に出てきた既出のイメージが繰り返し現れる。まるで、父の家出の記憶が、「彼」の記憶の中にあるもののパッチワークで作られているかのように。父の家出の記憶は、回想の主体である「彼」によって捏造されたものである可能性が高い。

 ではなぜ、回想の主体である「彼」は記憶を捏造したのか? 「〈母のところへ牛乳をとどけたら、また戻ってくる〉と女に約束した」と語る「彼」は、既に確認したように、いなくなった「母」がまだ居るかのように振るまっている。言い換えると「彼」は、母親がまだ失われていないかのような虚偽の回想をしている 。まるで、母の喪失の記憶を否認するかのように。すると、同じように捏造された可能性の高い「父の家出」の記憶とは、母の入院や母の家出の記憶を展開させないために、つまり母の喪失の記憶を否認し、そこから目をそらすために用意された記憶ではないだろうか。

 もちろん、事実として「彼」は母を失っているわけだから、いくら記憶を捏造しようとしたところでうまくいくはずがない。にもかかわらず、記憶を捏造してまで母の喪失を否認しようとする「彼」の姿に、「母」へのおぞましいほどの執着を読み取ることができるだろう。

 

 回想の主体である「彼」は、記憶の捏造以外にもう一つ、母の喪失を否認するための仕掛けを打っている。それは、物語の内容面には表れていない。諸批評家によって読まれ続けてきたアンチロマン的な要素の中にのみ表れる。論を先取りするならば、アンチロマンに立脚しながらも物語に執着する金井美恵子が、その矛盾を超克するために選んだのは、自らが作者としてアンチロマンの方法論を用いることではなく、物語の登場人物を語り手に置き、その語り手にアンチロマンの方法論を用いさせることによって、その方法論自体を物語の中に組み込むことであった、と言えるだろう。詳しく見ていこう。

「ピクニック」に限らず、金井美恵子の作品には「水」のイメージがあふれている。芳川泰久は、金井美恵子の小説における「水」の性質について、次のように語っている。

 

金井美恵子的な〈水〉は、だから、一方では皮膚の存在を際立てながら、他方でその皮膚を接触と共有の場に変え、その皮膚の境界=輪郭そのものをあいまいにしてゆくのだ。(『金井美恵子の想像的世界』)

 

「皮膚の境界=輪郭そのもの」を「あいまい」化する「水」。前章でみた通り、「くずれる水」の「水」はそのようなものであった。その「水」は同時に、物語への接近と差異化とが闘争する舞台であったことも、既に見た。そして「ピクニック」の「水」にも、同様のものを見て取ることができる。

 

彼女の(彼女たち、の)身体とあまり深く密着していたので、〈私にはどこからが自分の身体で、どこからが彼女の(彼女たち、の)身体なのか、まるでわからなかった〉。深く密着した器官の皮膚をとおして、体液が浸透しあい、柔らかな粘膜の壁――あるいは肉質の透明な布―に包まれながら、〈私は自分が、柔らかな、水で出来た壁でもあることを発見する〉。

(中略)

〈わたしは彼女に(彼女たち、に)なる〉

(中略)

〈わたしの輪郭を無限に溶解させながら〉(p. 157-158)

 

 境界=輪郭が曖昧になった結果、互いに「溶解」してしまう。つまり、互いが水そのものになり、渾然一体となった存在になってしまう。

 輪郭を曖昧化する主題論的「水」を行使する権利を作者から受け取った「彼」は、ある一つの目的をもって死の間際に回想を始める。すなわち、母の喪失の否認である。いや、アンチロマンの方法論によって行われる彼の計画は、喪失の否認などという生易しいものでは終わらない。「彼」は、喪失した母の代補を作り出そうとしている。物語冒頭でまず、「彼」は意図的に母と動作を共有する。それは、「牛乳」を媒介として行われる。

 

一リットルもの牛乳を母は毎朝飲んだものだ。顔をしかめ、のけぞらせた白い咽喉を液体が流れ落ちる速度でふるわせながら。(p. 146)

 

牛乳を咽喉に流し込み、顔をしかめながら飲み干して、とにかくあの部屋に戻ってみることにしようと考えた。(p. 146-147)

 

  わずか二行を挟んで、よく似た文がならべられている。渡部直己の言を借りればこのとき、金井美恵子のテクストは読者を「テクストの生産に加担すべき位置に引き寄せ」てしまっている。先に「母」が牛乳を飲む描写を見た読者は、これとよく似た後者の文章を読むとき、彼が牛乳を飲む姿と同時に、たった二行前で行われた母の動作までを思い浮かべてしまうだろう。彼と母は、読者の中で否応なしに結び付けられる。

 この場面の直後、牛乳瓶を介して「彼」に想起されるのは、「彼」と肉体関係を持つ「彼女」だ。「彼」は「彼女」に、「彼」が共有し損ねた「のけぞった」という修飾語を共有させようとする。

 

糸状の唾液はあおむいている顎に伝わり、唾液は頬から顎へまじわる皮膚の斜面をはすかいに流れて、軽くのけぞった咽喉のあたりまで濡らしてしまう。(p. 147)

 

「彼」と「母」の結びつきの強さに比べ、「母」と「彼女」の結びつきのなんと脆いことか。わずか二行先で同じ動作を、同じ修飾語(「顔をしかめながら」)をもって共有した「彼」と「母」は、否応なく結び付いてしまうが、十一行先で、片や牛乳を飲むこと、片や「彼」との情事というまったく別々の動作の中で共有された「のけぞった」という形容詞は、二人を結びつけることは出来ないだろう。

 動作や形容詞の共有によって「彼女」と「母」を結びつけることができなかったためか、その後「彼」は第九連において、「彼女」=「女」の家まで赴き、共有よりもより確実な手段として、肉体関係を取り結ぶ。

 

彼女の(彼女たち、の)身体とあまり深く密着していたので、〈私にはどこからが自分の身体で、どこからが彼女の(彼女たち、の)身体なのか、まるでわからなかった〉。深く密着した器官の皮膚をとおして、体液が浸透しあい、柔らかな粘膜の壁―あるいは肉質の透明な布―に包まれながら、〈私は自分が、柔らかな、水で出来た壁でもあることを発見する〉。

(中略)

〈わたしは彼女に(彼女たち、に)なる〉

(中略)

〈わたしの輪郭を無限に溶解させながら〉

 

 

 既に一度引用した箇所だが、その重要性を際立たせるため再度引用した。すでに「母」と結びついた「彼」と渾然一体となることによって、今度こそ「母」と「彼女」は結びつけられ、「彼女」は「母」の代補となることができるはずだ。しかし、結末において「息子さんのお母様」という形で母になった「彼女」は、「彼」の前には決して現れなかった。そのうえ、第十三連において「〈私には母親が誰なのかまるで思い出せない〉」とまで言われてしまうのだから、「彼女」は「母」の代わりにはなれなかったらしい。ではなぜ、「彼女」は「彼」の望む「母」になれなかったのか? その答えは、物語の冒頭に暗示されている。

 

牛乳壜の厚ぼったいガラスの感触が、〈彼女のことを思い出させるのに私は気づく〉。(中略)歯で軽く噛むと、実のつまった酸漿のように脆く柔らかなのに弾力のある筋肉が一時もじっとしていない唇の端から、光る糸状の唾液が筋を引きながら流れる。糸状の唾液はあおむいている顎に伝わり、唾液は頬から顎へとまじわる皮膚の斜面をはすかいに流れて、軽くのけぞった咽喉のあたりまで濡らしてしまう。(p. 147)

 

「彼女」は「牛乳壜の厚ぼったいガラスの感触」によって想起された。にもかかわらず、回想の中の「彼女」は「牛乳壜」のイメージとは裏腹に唾液を零してしまっている。物語中でも彼女は、度々内にある水を零し、自らの「咽喉」を「濡らしてしま」ったのと同じ要領で、外界を濡らしてしまう。現に彼女の住む「薄暗い湿った建物」は第九連において肉体関係を結んだあと、「水族館のように生臭く湿って」しまう。つまり、「水」のイメージによって〈わたし〉の輪郭が溶けて、〈わたし〉が水化しても、「彼女」の内側にその水は浸透せず、全て外に零れてしまうのだ。

 母屋での眠りを「溺れかかる過剰な水の夢など見はしない。むしろ、ひっそりと熟成する水蜜桃の夢に似た眠り。」と表現し、その様子を「安心感」による「大いなる眠り」と表現する「彼」にとって、水を内側から溢れさせてしまう、「溺れかかる過剰な水」に近い「彼女」は、「母」の代わりとはなりえなかったのだろう。「母」の代補になりうる存在とは、「ひっそりと熟成する水蜜桃」のような存在であるのだから。

 すると第二連において、会ったばかりであるにも関わらず「彼」が無意識にピクニックに誘ってしまった牛乳売りの「少女」の存在は、俄然大きな意味を持ってくる。

 

 牛乳売りの「少女」に結びつけられたイメージを見ていこう。

 

少女の素脚の丸い膝頭は水蜜桃そっくりで、白い腕は水の中の藻のように優美にきらめきながら、靴の両側にたれている紐を指にからめ小さな蝶結びをこしらえた。腕の内側の薄青く浮きあがっている血管は運河の地図のように見える。そしてこの運河の水源を見つけるのはとても簡単だ。そう、ようするに心臓を水源として身体中を網目状に走る運河。その表面に薄っすらと汗を滲ませて光っている産毛の生えた運河の地図。(p. 148-149)

 

 牛乳売りの「少女」は執拗なほど「水」のイメージと結びつけられているが、水を零す「彼女」と違って、内側に水を蓄えている。つまり牛乳売りの「少女」は、水を内側に浸透させることができ、かつ表面にも薄っすらと水を浮かべることができる存在、まさに「熟成する水蜜桃」に似た存在として描かれている。すると、牛乳売りの「少女」は「彼女」よりもずっと、「母」の代補に適しているといえるだろう。だからこそ「彼」は無意識に、牛乳売りの少女に惹かれてしまうのだ。

 しかし、「彼女」との肉体関係の後では、今から牛乳売りの「少女」に会いに行っても「遅すぎることに気がつく」。なぜ、遅すぎるのか。「彼女」との肉体関係によって、「輪郭が無限に溶解」=水化した「彼」は、「彼女」に「浸透」しようとした。そうすることで、「彼」と結びつけられた「母」のイメージを、「彼女」に与えるために。しかし彼女は水を零してしまった。肉体関係の後、彼女の家はより湿り、彼女からあふれた水は雨になる。

 

やがて雨が降り出すだろう。灰色のゼラチンみたいにねばつく水滴となって、運河のガソリンが鱗粉のようにあくどい皮膜を浮かべた黒い水面に落ち、運河の底の深みに達することなく、水の表面に溶け込みながら。(p. 158)

 

 ここで、すでに執拗なまでに水、特に運河と結びつけられた牛乳売りの「少女」を思い出さずにはいられない。「彼女」からあふれた水を浴びた「運河」は、その奥まで水を浸透させず、「水の表面に溶け込」ませる。そして「運河」と強く結び付けられた「少女」もまた、「輪郭が無限に溶解」=水化した「彼」を浸透させることができない。そうなってしまったあとでは、全てが「遅すぎる」のだ。

 一見すると、「ピクニック」において物語が主役の位置を占めているようには見えない。しかし、つじつまの合わなさや断章形式、さらには輪郭を曖昧化する(個人の物語を解体する)「水」による物語の解体そのものが、母への強い執着からなされる「母親の代補探し」の物語の一部となっている。そしてその物語は、牛乳売りの「少女」ではなく「彼女」を代補として選んでしまった時点で、バッドエンドへと向かうことが決まっていた。「ピクニック」は、「母」を傾慕した男の悲喜劇として、読み直されるべきだろう。

 

(野村)