クライテリア

批評誌『クライテリア』によるブログです。

批評再生塾、第二回課題全レス

さてさて、前回の記事でちょっと触れたとおり、『クライテリア』のメンバーは「ゲンロン佐々木敦批評再生塾」の 第一期生で、これを書いている横山は現在(第三期)再生塾のアシスタントをしています。というわけで今回はこのスペースを借り、批評再生塾第三期の最初の提出文に対する、全レスを行いたいと思います!なんと合計10000字超え!疲れたよ!!

提出文自体はこちら↓

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/subjects/2/

から読めます。

三期生や批評再生塾ウォッチャーの方はもちろん、批評の良し悪しってなにで決まるの??的な疑問を抱いている方にもオススメ。もちろん100%僕の主観であり、したがって主任講師の佐々木敦さんや出題者の大澤聡さんの評価とは全く無関係ですが、一つの指標くらいにはなるかと思います。

結構頑張ったので是非お読みくださいーm(_ _)m

(横山)

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吉原啓介:又吉の情報はそんなに詳しくなくていい笑。彼の情報と『劇場』のあらすじだけで1500字、全体の半分弱が費やされてしまった結果、たとえば藤田貴大の出し方が唐突になり、なぜ数いる劇作家から彼がモデルケースに相応しいのかの根拠付けができていない。他にも「僕は思います」という表現が散見することや、「役者」と「観客」という異なる立場のものが「第三者」という言葉で括られていることなどから、文章が恣意的に見えてしまうので、客観的な情報で納得させること(逆に不要な情報は削ること)を心がけよう。そうすれば「劇作家が劇作家になる物語」というメタ構造を取り出す視点の良さが光るはず。

 

Bambino:けなしているわけではなく、まだ批評という形式に慣れていないようなので、まずはモデルにする批評家を一人さだめ、その人の文章を真似するところから入るといい。ポイントとしては、「ある作品に対する自分の読解を、論理的で客観的に見える文章に変換し、読者にそれを共有させる」こと。このためには「私の体験」を愚直に語ってもダメだし、多用される「思う」という文末もまずい。これらは「論理的で客観的に見え」ないので。というか慣れないうちは、一人称自体を封印することをオススメする。そのうえで、効果的な文章の組み立てや引用の入れ方をこの先の塾で学んでいって欲しい。

 

灰街令:いきなり埋め込み動画や譜面が来るインパクトもあり、題材もキャッチー、切り口自体も面白いので飽きずに読めるものの、やはり長い。そして分析の丁寧さに比して結論が割りと普通。論稿の狙いや対象の妥当性は書かずに粛々と分析&論の展開を行った方がよりよくなったはず。「批評とは作者の意図を当てるゲームではなく、作品を読む新しい視点を作りだすものである。」というエクスキューズや、「私は芸術作品におけるステートメントやメッセージはその内容の真偽ではなくそれが作りだす世界像やそれがいかに語られるかという視点から分析されるべきであると考えている。」という表明も不要。また、「補遺」で楽曲の形式的な分析から離れてしまうので(だから補遺なのだが)、これは禁欲した方がよかったかも。あと「二人セゾン」が「君」と「僕」を軸に語られすぎ、「作品自体」という「メタ視点」が「三」として際立たないことも気になる。とはいえ対象への執着が感じられ、面白い文章だった。

 

イトウモ:『第三帝国』の読解の手つきが非常に丁寧で好感を持って読んだが、現実のテロとの接続がまだ上手くいっていない。導入でちらっと「現実の死とテロリズム」に触れているものの、その後テロの話が3000字の間出てこなくなるので、再登場が唐突に思える。文字数のバランスも『第三帝国』が大半を占めているので、いっそ現実の話を切ってしまうか、文字数を同等にして完全に章分けするor小刻みに『第三帝国』に挟み込む形式にした方がいい。あるいは今のバランスのままでも、テロの話を最後に持ってき、導入も完全に現実の話にすれば、現実の話で『第三帝国』を挟み込む構造になるので大分印象は違ったはず。とはいえ読み自体の丁寧さはなかなか真似できないものなので、今後に期待。

 

脇田敦:小沢健二の復帰が無条件に素晴らしいこととされていて、それが「ステマ」や「ケツ舐め」や今の日本の状況にどう結びついているかの、論理的な関係が書かれていない。「私にはそう感じられた」、「楽しみに待ちたいと思う」という結論部と併せて、極端な話「辛い時代だけど、俺が好きなアーティストが復帰したし、ちょっと明るい気分になれたよ」という主旨になっている。現状ではファンの小沢健二紹介になってしまっているので、小沢健二がどのように「ステマ」や「ケツ舐め」溢れる時代の「不安と戯れ」ているのか(あるいはその助けになるのか)を、小沢健二に興味がない人間も納得できるように提示する努力が欲しい。

 

高橋秀明:三つの観点はそれなりにいいのだが、それらの要素が組み合わさっていない。現状だと三つバラバラ東浩紀の思想を見出していく感じになっているので、「『美しい星』を東浩紀の哲学から読んだ一本の文章」を目指そう。具体的には、「三島由紀夫『美しい星』は、一見「セカイ系」に見える設定だが、それを超える要素を家族によって持たせている(現状二番目の観点)→実際、円盤の飛来地という細部に現実社会が「ダークツーリズム」のように影を落としている(現状最初の観点)→これは『美しい星』の結末にも対応し、一見すると美の現実への敗北に見える結末には、「気まぐれ」=「観光」=「憐れみ」という視点が確かに存在する(現状三番目の観点)」という流れにすれば、論文全体の筋が通っているように見える。あと「私は」という主語や「~たい。」という語尾は論旨を恣意的に見せてしまう効果があるので、なるべく使わない方がいい。

 

hideyukiwada:意気込みが強すぎると忘れがちだが、批評は第一に作品を語るものなので、まずは(たとえ「フィクション」だろうと)自分語りや自己言及を封印しよう。そのうえで、現状では『国境の南、太陽の西』や『コンビニ人間』の設定やストーリーが語られないまま登場人物の関係だけが検討されているので、二作品についての情報をもっと補いたい。また、「観光」という言葉で東浩紀の哲学が暗黙に前提されているが、こちらも『ゲンロン0』からちゃんと引用を引っ張ってきて、出典を示す。内容の問題ではなく、形式がまだ批評のそれになっていないので(最初だから当たり前なのだが)、模倣対象の批評家を決めて、「形から入る」ことがオススメ。

 

高尾:「三島由紀夫の最終定理」は面白いと思ったが、それが結局「パラフィクション」をなぞることに終わってしまっていて、もったいない印象。川端の作品を「パラフィクション」を用いて読むことでその概念自体を更新する「最終定理」を見出す、というシンプルな切り口にした方が良かったように思う。そうすれば、そもそも川端について言われた「最終定理」を筒井で論じる理由が「片腕」繋がりだけで弱い(というか落とし所が先に決まっていて、後から理由を付けたように見えてしまう)、筒井や渡部に触れることで登場する固有名がいたずらに増えてしまっているという難点を解消できる。

 

谷頭和希:引用される固有名が多く、知識量が伺えるが、多すぎてノイズになり、筆者自身の観点がぼやけてしまっている(実際結論自体は「阿部和重は語りが大事」という、作家本人が公言している域を出ない)。導入なく語られ始める論述と併せて、現状ではまだ、書きたいことを書きたいように書いている感じがする。また、「レトリックに左右のイデオロギーが混在している」という主旨の「右」側の根拠が、「難しい」漢字が「多い」という筆者の印象に留まっており、そのことが「右」に結びつくのもイメージの問題にすぎない。結果「左」の根拠として挙げられている、語りの構造分析の産物である渡部直己「接近=回避のディスクール」に比して論理的に弱くなってしまっている。というわけで切り口=引用する固有名を絞り、その分独自の観点&効果的な文章の組み立てを研ぎ澄ますことを考えたい。

 

寺門信:草稿より格段に良くなっていて驚いた。手堅さと論の起伏が両立した、いい文章になっていると思う。そのうえで、やはり当てはめて考察するに留まっている感じは否めないので、もう一歩論を進めたい。現状だと例えば「三」角関係の一角であるトマーシュの愛に触れられておらず、結果アレントの愛の三様態とのバランスが崩れているので、そこを考察してみるとか(トマーシュはアレントが論じていない愛の形なのか)。あるいはアレント自身が全体主義について書いている文書を導入し、全体主義と愛の関係を掘り下げてみるとか。多分講評で「きれいなんだけどもう少しパンチが欲しい」とか言われると思うので、何か+αがあるとよい。あと細かいところでは、「ここでは詳述を避けるが」は「ここ(文章)」で詳述してくれないのかと錯覚するので「個々の説明は後に措くが」とかした方がいいと思った。

 

じょいとも:落語とアメリカの対立というテーマ設定と、それを『大阪レジスタンス』の東京/大阪に重ねる視点は(僕が知らなかったということもあるが)全論考でも屈指だと思った。ただ残念ながら、文章の構造がそれを活かせる形になっていない。冒頭の段落で(まだ議論を進めていない段階で)「日本文化とアメリカ文化の対立を象徴するものと言えよう」と言われても同意できないし、その後に聖書の冒頭のような落語の系譜が来るので、読者を惹き込めない。いきなり現実の話題よりも作品を導入にした方がキャッチーなので、『大阪レジスタンス』の紹介から入り、「一見大阪と東京の話を描いたように見える同作だが、戦後の落語史、そしてそれを象徴するある事件を踏まえると、そこには日本/アメリカというより大きな対立を見出すことができる。」とか書いて冒頭に繋げるとよくなるはず。つまり現実を論じるためにあえて作品論の体を取らせると、話題を膨らしやすくなる。文章の組み立てを学べれば多分化ける。

 

谷川果菜絵:明らかに未完成でコメント出来ることは少ないが(未完成でも提出した気概はいいと思う)、冒頭部を見る限り、いきなり抽象論から入っているのが気になる。その結果、「私の頭の中でこんなこと考えました」という感じになっているので、一度それを具体物=作品に仮託し、客観的に見える形に変換したい。つまり、『LOVE 3D』から入った方がベター。

 

小川和希:草稿の段階より文章がスッキリして大分読みやすくなり、形式的には良くなった。そのうえで内容面の改善点を書けば、『グレート・ギャッツビー』論か『騎士団長殺し』論かをはっきりさせた方がいい。現状だと両者を均等に比較し類似点を見出す文章になっているが、そもそも春樹がフィッツジェラルドからの影響を公言している以上、両者が似ているのは当たり前。つまり「つなぎ=媒介者」としてのこの文章がなくても繋がっているので、どちらかを中心に論じる文章にするか、あるいはもっと以外な組み合わせを持ってくるかをしたい。あと形式面では、理論より作品の方が興味を惹きやすいので、冒頭は作品の話から入り、途中で補助線として中沢新一を導入したほうがベター。

 

北出栞:「セカイ系」が〈ディスプレイの時代〉に対応し、スマホ時代が〈インターフェースの時代〉であるという指摘は「おおっ」となった。だが後半の作品論が、両時代のメディアとどう絡むのかが不明瞭。Ctrl+Fで検索を掛けると覿面にわかるのだが、後半「インターフェース」という語が一切出てこなくなる。作品への愛ゆえに話題が作品分析に集中して周りが見えなくなり、作品の様々な可能性を示すために最後に大量の固有名が召喚されて、結果として当初の見立てが忘れられる、という感じになっている。見立てを活かすために要素を削ることが時として必要で、そのほうが作品が輝くということも得てしてあるので、次はもう少し焦点を絞ったものが読みたいと思った。

 

太田充胤:初回とは思えないほど完成度が高く、面白く読んだ。そのうえで言うことがあるとすれば、序章が長い。導入自体が面白いので苦にはならないのだが、全体の3分の1がそれに当てられ、何について論じる文章なのかが中盤まで明かされないのはやはりまずい。「一」だけで保坂和志平田オリザ谷崎潤一郎東村アキコと固有名が四つも出てくるので、もう少し照準を絞りたい。加えて、「小島には時代的な限界があった」という(それ自体当然の)結論に進んでしまうために、政治的に正しいことを言って終わってしまった感がある。結果「うん、だよね」という読み味になってしまうので、もう一度ひっくり返して小島論に戻すとか、あるいは冒頭で伏線のように挙げた固有名を再召喚するとかすると、より良かったと思われる。

 

Mikipedia:文章がエッセイのそれになっているので、まずは批評っぽい文章を学ぶところから始めよう。批評は主観的な読みを客観的な文章に託す特殊なジャンルなので、「わたし」の経験談はなるべく挟まず、中立的な第三者の立場から作品の構造を分析(今回だと「見る者」「見られる者」の関係を「エモい」と「痛い」で読んでいくこと)し、そこから何か結論へ達することが目標。匿名的な立場から書くため、著者名には敬称を付けないし、世代を代弁してしまうのもまずい。まだ塾の初回なので、これからのカリキュラムで批評の書き方を身に付ける欲しい。

 

谷美里:良くも悪くも谷さんの文章だった笑。文章自体は読みやすく、「均衡」というワードで「断食芸人」を読んでいく手つきも納得がいくものの、内容が薄味で、結論が抽象的な気がする。多分それは「起承転結」の「転」が無いため。現状は全体的にふんふんなるほどと進んでしまうので、あえて論旨の対立物を導入し、それを「この細部は一見相反するように見えるが、視点を変えると実は同じものの表裏であることが分かる」と持っていくような、論旨の起伏が欲しい。あとたしか永久機関のときにも言われていたが、セザンヌが完全に枕にとどまってその後活きていないので、最後もう一回セザンヌに戻るとかした方が良かったかも。

 

☆大山結子☆:ミニマリストを「断捨離」や「もったいない」、「禅」から解釈していくという視点は面白いと思った。しかし第一章の、正しさが「多数派」であることに担保された(そしてそこにあてはまらない者を「異常」とする)ロジックはどうだろう。これに併せて、論の頭から=論証の前からミニマリストが「禅の世界観と合致する」ことが自明になっているが、これは茶の湯との類似性を検証して初めて出てくる議論なはず。他にも「かなり現代美術らしい」というくだりなど、論の端々に主観性が見え隠れしている。例えば後者は、「ミニマリズム」自体が美術用語であることから繋げば回避できるので、そういう技術を磨こう。「現象から~読み取れるのだ」という説得口調も逆に説得する主体を露呈させるので、淡々と「現象」や事実だけを書いていきたい。

 

Pinchon:いまのままだと随想録ないし旅行記になってしまっているので、なにについて論じた文章であるのかを明確にする所から始めよう。そして論じる対象を決めたら、それに関連しない情報はなるべく削る。今回だと最終的に田山花袋聖地巡礼が話の中心になるので、「はじめに」は必要ない。また、随想録にしないため、私の体験に基づいた話を中心に据えない。はじめのうちは作品を一つ選び、作品論から入ることがオススメ。

 

ぽぽんた:ヌーヴォー・ロマンを相手どったことは評価するが、対象作の長さに比して拾ってくる細部が多すぎ、かつそれらを統合するはずの見立ても、「∩」、「ばら色」、「上昇」、「下降」、「断片」、「停止」、「輪」と、バラバラに提示されてしまっている。結果、もとの小説の読みづらさに論稿が引っ張られてしまった感じ。細部に統率があるのだということをクリアに示したいので、この場合だと例えばタイトルの「地下鉄」を基軸にし、他の細部をそれに関連するイメージに結びつけていく。例えば「∩」をトンネルの、「下降」する運動(に伴う相対的な描写対象の「上昇」)を「地下」の、そして「停止」をプラットホームのイメージに結びつけた上で、「すなわち『地下鉄の通路で』と名付けられたこの小篇は、叙述によって構成された「地下鉄」それ自体に他ならない。分割されつつ接続された三つの断章は三両の「車体」であり、この時『地下鉄の通路で』を読むという行為は、走行しあるいは停止するエクリチュール自体の「運動」へと乗り込み、身を委ねる体験と化す。」とかやるとそれっぽくなるはず。掴みどころのない作品には、なるべく一本の読解の筋がほしい。

 

ペンネムRamune:レコメンドとしてはこれでいいのだが、批評文の形式にはなっていない。大雑把な両者の違いは、前者は自分がその作品に触れた体験に立脚して書き、後者は作品とそれが属する文脈に立脚して書くこと。なぜなら前者は(特に批評文の読者にとっては)再現できないものだから。逆説的なことだが、自分が作品に触れた体験を追体験させるためには、その体験を直接書くのではなく、作品について書くことで同じような効果を読者に齎す必要がある。そしてそれができるのが上質の批評文。なので次回からはネタバレを気にせず、自分の体験や「詩の専門家ではないので」のような自己紹介を封印し、作品がどのような形式と内容をしていてその結果なにが起こっているのかを書いて欲しい。

 

runner2718:語り手の内面を作品世界とは独立した第「3」項とみなす論点はいいが、その観点が「ワタナベの頭の中にしか存在しない空間である可能性がある。〔……〕つまり、三番目の世界に属していると言えるのではないだろうか。」と、「可能性がある」「言えるのではないだろうか」という推定として登場し、にもかかわらずそれ以降自明の事実かのように論じられている。そのため、意見と事実がいつの間にかすり替わっている印象がある。全体の見立てが推測にもとづいているのを避けるためには、外から文献を引用してくるのがいい。たとえば村上春樹論は他にたくさんあるし、物語における語り手の問題はナラトロジーという分野でかなり検討されているので、その文献を引っ張ってくるとか。傍証を入れつつの議論の進め方を学んだら、ぐっと良くなるはず。

 

渋革まろん:面白かった。尾形亀之助の語法と人生との結びつきはもう少し説得的にできたのではと思うが、長い文章にありがちな詰め込みすぎもなく、対象も傍証も絞られていて論旨がクリアーなので、苦にならず読める。強いて言えばもうすこし全体に(特に柄谷の風景論の要約と、実質「5」と「6」の二章にまたがっている結論を)切り詰めたいのと、時折挟まれる「ぼく」視点がやや鼻につくこと、長さの割に結論のパンチが弱いことは気になったが、いずれも好き嫌いの範疇か。次回も期待。あと一般的に一重鈎が外で二重鈎が中なので、これはなおした方がいい。

 

伏見瞬:唯一昨年の最初の課題である、批評家は先行世代を批評して登場する、という主旨を継承しているのは良かった。だが、吉田・山下両名を批判したい/木下古栗・平田オリザを並べ論じたいという二つの目的があまり混ざり合っていない印象。その原因はおそらく、最初に吉田と山下の共通の問題点を上手く言語化できていないことで、両方の問題点を古栗がバラバラに乗り越える構図になっている。つまり論点を一本化出来ていないので、平田が古栗と何を共有しているかも見づらくなってしまう。またこれも最初に顕著だが、ブロックの構成が「Aがある。Bがある。ここからCが言える。」という構造になっているため、B(文章全体では平田オリザがそれにあたる)が出て来るのが遅くなる上、Cにたどり着くまでなぜAとBが並べられているのかが不明瞭になってしまう。「AとBにはCという共通点がある。」とまず言ってから個別のA・Bを分析すると、大分論がすっきりするはず。

 

斎藤英:非常にオーソドックスな村田沙耶香論として、危なげなく読めた。しかし逆に言えば、「『消滅世界』がこれまでの村田の延長にある」という論旨が直線的で、起伏に欠ける印象。この原因は過去の作品を追うことに紙幅の多くを費やし、『消滅世界』の特異性の記述に分量が裂けなくなっていることか。結果として立木康介の理論も登場が最終盤になり、意見を代弁してもらうだけで議論が深まっていないのも気になる。基本的な構造はしっかりしているので、現状の結論になっている認識を出発点に、さらに論を展開させたものを読みたいと思った。

 

町田佳路:読者に呼びかけたり、アジテートするような文体が、批評的な客観性と遠いものになってしまっている(特に冒頭と最後)ので、まずは客観的に見える文章を獲得しよう。たとえば現状だと、なぜ「菌」が「1と2を超える3の存在」と言えるのかの根拠が示されないまま、自明のことのように第三者の代表として扱われている。そして平田オリザや「読モ」が文章に召喚とされた理由もよく分からない(その理由が第三者的だという類似だけなら、他の第三者的なものでも良かった?)まま、話が「菌」に戻ってしまい、いい感じのことを言って終わってしまっている。目の付け所は面白かったので、誰が読んでも「菌」が第三者的なものを代表しており、誰が読んでもそれが平田オリザや「読モ」と分かちがたく結びついてる、という全体の流れが欲しいところ。あと書名は『』で括ろう。

 

山下望:面白いのだが、長く、読者を選んでしまう(僕も好みのスタイルではない)。しかも最後の一文が「また別の機会に続きを述べたい。」で「続くのかよ!」となった笑。このタイプの批評文は面白さと雑多さが結びついているので扱いが難しいのだが、それでも流石に思考に浮かんだ固有名が全て投入されているように思えてしまう。結果、「amazonレビューを匿名批評の実装形体と見立てる」という面白い着眼点が隠れてしまうし、前半と後半が、「お客様にお問い合わせされる側」というフレーズによる「フラッシュバック」によってのみ接続されることになり、論理による結合のないamazonレビューの主題は、結論部では見る影もなくなってしまう。アウシュビッツ(以降)と労働という伏流があるのは分かるが、やはり文中に(そこをこそ)可視化したい。この路線の批評もありだと思うが、この路線だけが批評ではないことは今後一考してほしい。あと引用は一重鈎にしよう。

 

遠野よあけ:導入のバランスや、作品の取り合わせ、突然何を言い出したんだという見立てのインパクトは流石二周目。ただ良くも悪くも見立てのインパクトで進むので、騙されている感が残ってしまう(「エピローグ」及び「待つ」ことが「再登場」に必要だという主旨なら、「エピローグ」が存在しない版のイシュメールが別作品で「再演」され得たのはなぜか。そもそも「再登場」と「再演」はどう違うのか、など)。あとメルヴィルが『白鯨』一本に絞っているのに対して、上遠野はさまざまなシリーズが出てくるため、対比がしっくりこない。具体的には『白鯨』が循環構造になっているのに対し、上遠野サーガはそうではないのでは?と、細かい所をつつこうと思えばつつけるものの、全体としては面白く読んだ。けどこの内容なら「郵便空間」には素直に言及した方がよかったかも。

 

ytommy :作品についての記述が丁寧だが、それに文章を費やしすぎ、独自の視点や論理の展開が乏しくなってしまっている。その結果、なんとなく作中人物たちの内面を読み取っていいことを言って終わる、非常に素朴な文章になってしまっている。そして作中人物の内面に焦点を当てた結果、肝心の「東京/大阪/広島」がどのように描かれていて、その描き方によってどのような効果が出ているのか(例えば一箇所あるいは二箇所だけが描かれる場合とどう違うのか)がほとんど展開されないままになってしまっている。比較的出来の良い読書感想文を読んだような読み味なので、ここから批評に持っていきたい。そのためには「内面」を生み出している文章の構造まで読む練習をするべし。

 

ユミソン:情報的にはふんふんなるほどとなるのだが、文章の組み立てが考えられておらず、論旨の山場が見えづらい。対処としてはやはり「三」をキーワードとして有効に活かすこと。例えば現状ぬるっと時代考証から入っている書き出しを改め、「柳宗悦の『民藝とは何か』は、民/官、自由/伝統、個人名/無記名などの二分法による見た目上の素朴さに反し、実は第「三」の立場を追究する複雑なロジックを持っている。」と断言すれば、読み手を惹きこめる。そして「最初にも書いたが」という箇所に時代考証を持ってくれば、論の重複を避けられる。一度書いたあとで、段落を組み替える作業をするといいかも。あと批評文のコツとして、「みなさんにも一読をお勧めしたいのだが」みたいな呼びかけや「タイトルに書いた」のような自己言及はない方がいいし、結論が「私見」なのも避けたい。今まで論じてきたことから必然的にこの結論になるよね、みたいな構えが嘘でもほしい。

 

みなみしま:まずインターネット環境を整えたい。その上で、文章がやや大仰で、堅い印象。例えば問題提起部から、「鋭敏にも炸裂している」という強い修飾や、「色彩表現を見出さなくてはいけない」という使命感すら感じさせる問題提起が出て来るので、読み始めたばかりの読者はテンションに置いてけぼりをくらう。また、分析が精緻なこと自体はよいのだが、分析をしている際は当然論旨の進行は止まるので、結果として全体の流れを追いづらくなっている。そして後半部「美術史を知る者であれば」というエクスキューズで始まったマレーヴィチへの言及を皮切りに固有名が一気に増え、(こちらが大半なことは筆者がよく知っているだろう)美術史を知らぬ者を排除する形になってしまっている。総じて、もう少し大衆に向けて書かれているという体の文章にしたい。一度ですます調で書いてみる実験をすると変わるかも。